【降誕節第8主日】
礼拝説教「成熟した人間」
長山 道 牧師(東京神学大学准教授)
<聖書>
エフェソの信徒への手紙 4:7-16
<讃美歌>
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「成熟した人間」とは、どんな人間でしょうか。エフェソはギリシア人の町で、当時のギリシア人にとって「成熟した人間」とは、完全な人間を意味していました。一方未熟な人間とは、成人のような円熟した判断と確実さに欠け、波に弄ばれる船のようにぐらぐらと迷ってばかりいるような人間を意味していました。
生まれてから大人になるまでの間に、人間はたくさんの大きな変化を遂げます。体が成長し、体力もつきます。知力が成長し、話せるようになり、字が読めるようになり、書けるようになり、計算ができるようになり、様々な知識が身につき、思考力も深まります。心も成長して、人に優しくしたり、道徳的に判断したりもできるようになります。幼稚園から小学校、中学校、高校、そして大学へと進むにつれて、勉強はどんどん難しくなっていきます。小さな子どもの頃は、20歳のお兄さん、お姉さんがとても大人に思えました。円熟した判断と確実さを持っているように見えていました。ぐらぐらと迷ってばかりいるとは思えませんでした。
ところが自分自身が成人式を迎えたときに、20歳というのは自分が小さな子どもの頃に思っていたほど大人ではないということがわかりました。確かに小さな子どもよりは成長していましたが、円熟した判断と確実さなどももちろんなくて、ぐらぐら迷っていることの多い、弱い存在でした。それでも、「子どもの頃からここまで成長したので、もう身長は伸びないにせよ内面的には、これからも同じように成長していって、いつか成熟した人間になれるのだろう」と考えました。
今度は30歳になったときに、20代の間に期待したほど成長しなかったことに気づきました。10歳と20歳の自分を比べると大きく成長していましたが、20歳と30歳の自分を比べると、10歳から20歳ほどの大きな変化はないような気がしました。相変わらずぐらぐらと迷うことがありました。間違った判断を下すこともありました。わたくしは母に、「30歳になったらもうちょっと分別がつくようになるのかと思ってたよ」と言いました。すると母は、「分別なんて幾つになってもつかないわよ」と答えました。薄々そうかなとは思っていましたが、やっぱりそうだったかと、わたくしはとても納得しました。
何歳になっても、人間には迷いがあり、弱さがあります。現在のような高齢化社会になる以前は、人間は歳を重ねるにつれて円満な人格が完成し、最終的にはもう学習することも発達することもなくなるかのように考えられていました。しかし現在の発達心理学では、人間は一生、老年期に入っても、子ども時代や青年時代と同じように乗り越えていくべき発達課題を持っていると考えられています。ですから、幾つになっても迷ったり、誤ったり、弱さを覚えたりということは続くのでしょう。人間は、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」(14節)のです。エフェソは海に近い街で、エフェソの人たちは船に乗って移動することがあるので、船旅をするときに風に翻弄されるのは、身近なとても恐ろしいことでした。小さな船が強い風に吹き付けられて思うように進路を行くことができず、沈みそうになるということが、わたくしたちの人生にはあります。
それではわたくしたちは、成熟した人間になることはできないのでしょうか。実は、エフェソの信徒への手紙で「成熟した人間」とは、一人ひとりの人間ではなく、わたくしたち教会が一人の成熟した人間のようになることを意味しています。「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(12-13節)。教会が一人の成熟した人間のようになるというのは、どういうことでしょうか。
教会の中には、いろいろな人がいます。それぞれ個性も立場も性別も出身も年齢がも賜物も違います。「わたしたちひとりひとりに、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)と書かれている通りです。それは、わたくしたちがばらばらなのではなくて、一人の人の体が、頭や手や足やお腹など、幾つもの違った部分を組み合わせて造られているのと同じです。わたくしたちがどうやって一つの体となるのかといえば、キリストが、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされ」(11節)ることによってです。これは、わたくしたちが知っている今の教会の制度とは違いますが、教会の最初期の伝道者たちです。
伝道者も、務めこそ特別ですけれども、しかしやはり教会の他の人たちと同じように、同じ体の部分です。「節々」(16節)、つまり関節が、使徒や預言者や福音宣教者や牧者、教師なのだそうです。新約聖書の時代には、関節は体の部分をつなぐだけではなく、頭から必要な刺激と成長の力を伝えて体全体を維持すると考えられていたそうです。頭なるキリストから、伝道者が必要なみ言葉と成長の力を伝えて、キリストの体の全体を維持していきます。
キリストがそのような伝道者たちを教会に与えてくださることによって、「聖なる者たち」、つまり教会に集まる人たちは、「奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げて」いくというのです。
「奉仕の業」とは何でしょうか。教会には長老や、いろいろな委員会などのご奉仕を担ってくださっている方々がいらっしゃいます。そうしたご奉仕をしている人たちがキリストの体で、ご奉仕をしなければキリストの体にはなれないのでしょうか。
あるキリスト教主義の女子校の修養会の講師を務めさせていただいたとき、高校2年生が夜中に相談に来たことがあります。「先生、わたし、洗礼を受けたいんですよ。でも、わたしはまだ教会の大人の人たちみたいにたくさん献金できないし、お料理も上手にできないので、礼拝の後のカレー昼食会のお手伝いもできません。やめたほうがいいでしょうか」。そんなことで深刻に悩んでいたのかと、とてもほほえましい気持ちになりました。「そんなことはちっとも気にしなくていいんだよ。洗礼は、イエスさまを信じているなら誰でも受けていいんだよ。あなたはまだ高校生だから、献金はお小遣いの中から自分の出せるだけで十分だよ。カレー作りはできなければ無理にしなくてもいいんだよ。牧師先生や学校の先生に相談してごらん」と、ごく当たり前の返事をしましたら、彼女はとても嬉しそうに、「じゃあ、洗礼を考えてみます」と言いました。
教会学校教師やお掃除のような様々なご奉仕ももちろん大切なお働きですが、「奉仕の業」とは最も根本的な意味では、ただ「仕える」というシンプルなことです。伝道者を通して仕えるのに適した者とされるというのは、得意なことを生かして独自の業績を上げることではなく、ただ福音の説教を聞くことで養われて、「信仰と知識とにおいて一つのものとな」(13節)ることです。あるいは「愛に根ざして真理を語る」(15節)ことです。そのようにして、様々な人間の集まりであるわたくしたちが、他の教えに迷わされることなく信仰と愛の一致に仕えてキリストの体としての教会を形作って行くということが、何よりも教会に仕え、主に仕えるということです。
それは、いい人ぶるとか無理をするということではありません。キリストが伝道者を立て、伝道者に御言葉を与え、その伝道者を通して、わたくしたちはみ言葉を聞くのですから、成長させてくださるのはキリストであり、神です。
わたくしたちは一人で成熟した人間になることはできないのかと、初めに申しました。しかし、このようにして教会が一人の成熟した人のようになるということと、わたくしたち一人一人が成熟へと向かって行くということは、どこか繋がっているようにも思います。
キリスト教大学で教えるとき、わたくしはこういう話をいたします。「皆さんは、将来の職業のために今一生懸命勉強したり、検定試験を受けたり、資格を取ったりしているでしょう。それは10年後、20年後、30年後の自分のためにとてもいいことです。きっと役に立つでしょう。働き始めてからも、将来のために貯金をしたり、もっと勉強したり、さらに資格を取ったりするでしょう。そんな努力が身を結んで、たくさんのお金を手にしたり、昇進して素晴らしい肩書きを手に入れたり、高く評価されたりするでしょう。そんなあなたを素敵だと思って、近づいてくる人たちも大勢いるでしょう。評判が良くなって、人脈がどんどん広がって行くことでしょう。それは人生を豊かにしてくれるでしょうけれども、でも、それが一番なのではなくて、どれも2番目以下なのだということを頭の片隅にでも、覚えておいてください。1番は、神であり、キリストです。キリストを頭とすること、主を主とすることは、業績や評判や貯金などよりも大切なことです。なぜなら、自分よりも業績を上げている人を妬む気持ちから解放してくれますし、他人と比べて自分はダメなんじゃないかという惨めさや不安からも自由にしてくれますし、何か大失敗をして評判や名誉を失ってしまったとしても、絶望して死んでしまいたくなる気持ちから救い出して、『これがすべての終わりではないんだ』ということに気づいて、もう一度立ち上がる勇気を与えてくれるからです。神を神とし、主を主とするということは、わたくしたちを束縛することのように思えるかもしれませんが、実際には解放して自由にしてくれることです。それだけではなくて、40年後、50年後の皆さんをも自由にします。今、皆さんは将来の仕事のために頑張っているでしょうけれども、仕事を定年で辞めてからも、人生はおそらく30年続きます。皆さんはまだ30年も生きていないでしょう。仕事やそれにまつわる収入や、スキルや、肩書きや人脈にすべての価値をもしおいていたら、仕事をしている間はそれはとてもいいでしょうけれど、仕事を終えたらすべてを失ってしまうことになります。実際それでがっくり落ち込んでしまう人もいますし、『キレる老人』になってしまう人もいます。ですから今、皆さんが10年後、20年後の自分のために頑張っていることが、同時に40年後、50年後の自分に毒を盛っていることになっているかもしれません。40年、50年、60年経っても変わらず一番大切なものを知っておくことが、必要なのです」。
もちろん、学生さんたちのほとんどはキリスト教自体が初めてですから、キリストを頭とするということはよくわからないかもしれません。それでも、毎年なるほどという顔をして関心を持って聞いてもらえる話です。わたくしたちは、キリストの体として、キリストを頭としてみ言葉に養われながら教会に連なっていますから、そこは学生さんたちよりも良くわかるでしょう。
東京神学大学理事長の近藤勝彦先生は、定年退職をされた頃、「毎日が夏休みです」とよくお手紙に書いていらっしゃいました。仕事を終えられてからかえって、「毎朝目覚めるとまず主の召しを思うようになった」ともおっしゃっていました。「それまで主の召しとは、若い人の職業選択と結びつけて語ってきたけれど、ご自分自身が職業生活を終えてみてわかったことは、主の召しというのは職業よりももっと大きい、生涯にわたるものだということだった」のだそうです。お忙しかった神学教師時代はおそらく、朝目覚めたらすぐに「ああ、今日はあれとこれをしなければ」と時間に追われていらしたのだろうと思います。それも主から託された務めでしょう。しかし「毎日が夏休みです」という生活の中にも、主が今召して望んでくださっていることがあります。献金もカレー作りもできなくても、教会の信仰と愛の一致のために仕え、愛に根ざして真理を語るという重大な務めがあります。成熟した人間のようにされた教会の肢であるということは、わたくしたち一人一人を神の前に成熟した人間にし、決して虚しくされることのない生き方を与えてくれるものではないでしょうか。
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