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2021年1月24日(日)聖日礼拝(礼拝は中止です)

【降誕節第5主日】

礼拝説教「あなたを生かす真の慰め」

森島 豊 牧師(青山学院大学准教授)

<聖書>

詩編 23:1-6


<讃美歌>

(21)56,120,459



 キリストの恵みにより伝道者に召し出された森島豊から、鷺ノ宮にいてキリストに結ばれている白鷺教会の皆さんへ、わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、皆さんにあるように祝福をお祈りいたします。


 お会いすることを楽しみにしいましたが、残念ながら一緒に礼拝することができなくなりました。思えば、伝道者が教会の人たちと一緒に礼拝が出来ないという状況は、聖書の時代からありました。今、私も期せずして皆さんに手紙を書くことになり、伝道者たちがどのような思いで手紙を書いたかを味わっています。神は不思議な仕方で教会の交わりの原点を経験させてくださいました。今日はその皆さんと、試練の中で多くのキリスト者を支えた詩編23編の祈りの言葉に耳を傾けたいと思います。


 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。


 この祈りの言葉は、多くのキリスト者が愛してきた聖書の言葉です。私は、以前長崎の原爆が投下された爆心地から最も近いプロテスタント教会、長崎平和記念教会の牧師をしておりました。その長崎の教会で福音伝道のためにたくさんのことに取り組みましたが、その中で、今でもやってみてよかったなぁと思うものがあります。それは「私と教会」と題した愛唱聖句・愛唱賛美歌一覧表を作ったことです。教会に集う一人一人がどんな聖書の言葉に慰めを受け、どんな信仰の歌に支えられてきたのか分かち合いたかったのです。その愛唱聖句の中で、最も多くの人に選ばれた聖書の言葉の一つが、詩編第23篇の御言葉でした。


 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」


 ここは新共同訳が元の言葉を忠実に訳しているのですが、「主は羊飼い」と言い切っています。「主は羊飼い」。信仰の告白をしている。「主は私の羊飼い」。そのように言うことができた時、もう私には何も欠けることがない。


 自分を見れば、本当は欠けているところがたくさんあるのです。乏しいのです。たとえば、愛が貧しかったり、思いやりを欠いていたり、忍耐力が欠けているなぁなんて思うことたくさんあるのです。年を重ねてくるというと、健康を欠いていたり、気力を失っていたり、将来に対する希望がなかったり。数えだしたら挫けそうになることが幾らでもあるのです。今がまさにそうです。けれども、「わたしには何も欠けることがない」と断言できる。何故か。「主が私の羊飼い」だからです。


 この詩は「ダビデの詩」とあります。ダビデは最初羊飼いでした。だから羊飼いがどういう存在であるかよくわかっていたでしょう。そういう経験からこの詩が生まれたのかもしれない。羊というのは一人じゃ生きていけない。そういう羊が生きていかれるのは、羊飼いが一緒にいてくれるからです。


 ダビデは偉い王様ですけれども、王になる前もその後も、次から次へと襲いかかる問題に悩まされた人です。悩みのない日々はなかったのではないかと思う人生を過ごした人です。そのダビデが歌っていた歌だと聖書は語るのです。「主は私の羊飼い」。この信仰がこの人間を支えていたのです。「主は私の羊飼い。私には何も欠けることがない」。必要なものを満たしてくださる主が私の羊飼いとなっていてくださっている。


 「主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主はみ名にふさわしく、私を正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、私はわざわいを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」。


 「主が私と共にいてくださる」。この確かさの中にあるから、もう恐れはない。恐れが私を支配しているのではない。「たとい死の陰の谷をゆくときも、私は災いを恐れない」。死の陰の谷をゆくときに、災いがないのではありません。災いはあるのです。この暗いトンネルはいつ終わるのだろうか思う日々を過ごすことだってあるのです。災いのない人生なんかないのです。悩みのない人生もない。生きていれば必ず苦しみや悩みを経験することがある。けれども、神のいない人生もない。主はいつも共にいてくださる。だから、「私は災いを恐れない」のです。


 しかもここで思い起こされている災いは死です。死ぬことです。人生の中で誰でもが通らなければならない暗い孤独の闇です。皆さんの中に死なずに済む人間なんて一人もいません。いつかは通らなければならない死の陰の谷が誰にでもある。そこでは地上の生活における肩書きも、自分が王であることでさえも何の支えにもなりません。そういう中でこの詩人は歌うのです。その時にも常に私の慰めであり続けるのは、神であられる「あなたがわたしと共にいてくださる」ことです。だから、私はもう災いを恐れなくて済んでいる。これが私を生かしている信仰だと言っている。この同じ信仰の歌を自分の歌とすることがゆるされている。良き羊飼いであられる神が、あなたとも共におられる。こんなに素晴らしいことはないのです。


 「あなたの鞭(むち)、あなたの杖/それがわたしを力づける」。これを聞いて、なんだかビシバシ叩かれて痛そうだなぁって思うかもしれない。けれども、ここは私の最も好きな聖書箇所の一つです。この鞭と杖は、地面をたたいて音を出すために使うのです。羊たちが暗い谷を降りなければならない時がある。真っ暗で何にも見えないところを、しかし歩いて進まなければならないことがある。道も見えない。羊飼いも見えない。自分はまったく孤独だと思わされているときに、「バシンバシン!」と地面をたたく音が聞こえてくる。見えないのだけれども、音が聞こえてくる。「バシンバシン!」。その音を聞きながら、羊は確かめることができたのです。「あぁそこに主がおられる!」。音を聞きながら「私の羊飼いはすぐそこにおられるのだ」と確かめて、安心して道をゆくことができたのです。だから、あなたの鞭と、あなたの杖はわたしを力づけると言ったのです。


 私たちにとって、この鞭と杖とは、聖書の言葉であり、また賛美の歌声でありましょう。教会に響く声でありましょう。今日も聞こえてくる音がある。語りかけてくる言葉がある。その言葉を聞きながら、「神が私とともにいてくださる」そのことを深く味わっているのです。愛唱聖句・愛唱賛美歌はその証です。あぁこの人はこの聖書の言葉を聞いて慰めを受けた。この讃美歌の心に慰めを受けた。しかし、皆そこで聞いて受けた慰めは同じです。「あなたは一人じゃない。主イエス・キリストがあなたと共におられる」。あなたの前を行きながら、あるいはあなたのすぐ傍らに立ちながら、よき羊飼いであられる主イエス・キリストがあなたと共に歩んでくださっておられる。どんなときでも、もう災いを恐れなくてもよい。キリストがあなたと共におられる。


 「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭(あたま)に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる」。


 香油を注ぐというのは「癒し」を表しています。傷ついている者、病んでいる者を癒してくださる。癒すというのは、本来の姿に戻してくださるということです。神に向かっていく人間として主が癒しをお与えくださる。その恵みで溢れさせてくださる。


 「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」


 恵みと慈しみがいつも私を追いかけてくる。どんなに離れてしまっても、聖書の言葉が聞こえないところで生活をせざるを得なくなっても、神の恵みの御手はいつも追いかけてきてくださる。私に届いてくださる。あなたにも届いてくださる。あの人にもこの人にも、主の恵みが届いている。この神の愛から私を引き離すものはもう何もない。もう何も恐れることはない。欠けているものは何もない。生涯、主が私と共に住んでくださり、私も主と共に住むことになる。こんな素晴らしいことはないのです。この信仰が私どもの教会を起こしたのであり、ここに私どもを生かす真の慰めがあるのです。


 しばらく教会での礼拝が出来ない皆さんにこの主の慰めが目で見るよりも確かに、耳で聞いて、心に感じて、歩んでいくことが出来ますように、皆様の上に主の導きと祝福をお祈ります。




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