【降誕節第4主日】
礼拝説教「わたしに従いなさい」
願念 望 牧師(国分寺教会)
<聖書>
マルコによる福音書 2:13-17
<讃美歌>
(21)12,51,531
イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マルコによる福音書2章13-17節)
***
礼拝に集まることができないことは、大きな苦難です。しかし、かつて初代教会は厳しい迫害の中、自由に集まって礼拝することができませんでした。先が全く見通せない中で主にゆだねて祈る中、主の御言葉によって慰めを得ていったのです。
マルコや仲間の弟子たちも、主イエスの御言葉とその御業を思い起こして書き綴っていきました。それが福音書です。ですから、ご一緒に主の御言葉に思いを深めて聞くとき、どのようなときにも主は私どもひとりひとりを深く御心にとめてくださっていることがわかるのです。
主イエスは、一人の人と出会われています。その出会いは、私どもと無関係ではありません。主の御心を知ることができるからです。
カファルナウムという町にレビという人がいました。主イエスは、カファルナウムの町をよく行き来されていました。ペトロという弟子の家がカファルナウムにあって、彼の家を定宿にされていたと言われるほどです。カファルナウムの町で教えておられたとき、行き来する途中に、町の収税所に座っていたレビを見かけておられたのではないか。私どもが主に出会う前に、主は知っていてくださるのです。
その日も、レビは座っていました。一人取り残されるように座っていたと想像することもできます。その日、主イエスがカファルナウムの町が面している湖のほとりで教えておられたのですが、ある神学者は、町が空っぽになるほどに、人々はこぞって主イエスのもとに出かけていったのではないかと言います。そんなとき、一人取り残されるように、腰を上げて出かけられずに座っていた者のことをも、主は御心にとめてくださっているのです。
収税所というのは、税を集めるところですが、当時、このつとめは、ユダヤの国を支配していたローマ帝国のお役人がしていたのではなかった。ローマは、税を集める権利を売っていた。その権利を買ったユダヤ人が、しもべを使って税を集めていたのです。おそらくレビは、しもべとして税を集める徴税人の一人であったのでしょう。
権利を買った徴税人の頭は、買った値段に見合うように、余分に集めました。何倍も取り立てることは普通のことだったようですから、人々に忌み嫌われていた。しかも、ユダヤ人なのに、ローマに魂を売り渡すようにして仕えて、同胞のユダヤ人たちから税を集めるわけですから、町の人々はだれも、仲間だとは思わなかったでしょう。神に見捨てられていると思われていた。人間関係を持とうとして近づいてくれる者はいなかったはずです。イエスのところへ話を聞きに行こうよ、と声をかけてくれる仲間などおよそあり得ない。孤独であったと思います。
しかし、町の人々を愕然とさせることが起こった。イエスとはいったいどのようなお方なのだろうと、分からなくなるようなことが起こったのです。レビ自身も、全く思い描いたこともないようなことに驚くのです。それは、主イエスが、「通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。」からです。
「わたしに従いなさい」という、主イエスの招きの言葉を聞いて、レビは耳を疑うほどに驚いたでしょう。しかし、それこそ、自分が待っていた神の言葉だと信じるようになったはずです。これこそ、自分が願っていたことだと分かったということです。
マルコ福音書は、この主イエスの招きは、わたしたちへの招きでもあると信じて記しています。一人孤独に座っているようなわたしどものところにも、主イエスは近づいて、「わたしに従いなさい」と命じて動かしてくださるのです。
私事ですが、高校3年のときに、牧師になるように招きを神様から受けていることを信じて、ずいぶん悩みましたが、わたしのような者でもよろしければ、と決心することができました。しかし、確かその前の年ですが、牧師のおつれあいから、あなたが牧師になるようにわたしたちは祈っているのよ、と言われて、ぷっと、吹き出してしまいました。笑ってしまうほどに、あり得ない話であったからです。レビは、もしかしたら笑ってしまうほどに、主イエスの招きに驚いたかもしれない。
レビは、収税所の職を捨てて、立ち上がって喜んで主イエスに従ったのです。
レビは、魂に命の息を吹き込まれたように歩みはじめ、主イエスを自分の家に招いて、多くの仲間と主に食卓を囲んでいます。一人孤独に収税所に座っていたレビとは別人のように、主イエスを中心として多くの仲間と共に生きるようになった。私どもは、ここに記されている、対照的なレビの姿、コントラストを読み取るのではないでしょうか。
レビは、新しい人として生きるようになりました。
レビにとっては、主イエスによって、新しい誕生日を与えられたようなものです。教会では、主イエスに従って生きることを決心して、主イエスを救い主と信じて洗礼を授けられる日を、ある意味で新しい誕生日としてとらえています。
喜びの食卓で、文句を言う人たちがいました。納得できないのです。あんな人をなぜイエスは受け入れるのかとつまづくのです。納得できない者たちの姿の中に、マルコは自分たちを見ていたかもしれません。神の愛は深く広く、人の思いをはるかに越えていて、つまづきを与えるほどなのです。
主イエスは、有名な御言葉を語られた。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
「正しい人」というのは、自分で「正しい人」と思っている人たちです。当時の宗教的な指導者たち、まさに主イエスに、なぜこんな人たちを受け入れて食事をなさるのかと納得いかなかった人たちは、自分たちを「正しい人」と思い込んでした。そして、ある人たちを罪人、とさげすんでいました。しかし、神がご覧になったら私どもは、すべて赦される必要のある、罪人であります。
マルティン・ルターはキリスト者のことを、「赦された罪人」と呼びました。
もし、洗礼を受けてキリスト者にしていただいた者、教会に集う者が、自分たちは神様を信じている正しい人で、まだ教会に来ていない人は正しくない人、罪人だと考えたら、とんでもない間違いです。主イエスがここで厳しく戒めておられる、ファリサイ派の者たちと同じ過ちに陥ることになります。
私どもは、赦された者たちであり、生涯、神の赦しのもとに生きる、赦された罪人たちの集まりです。神の赦しのもとに生きて、神の正しさに近づき続けるのです。
レビは、多くの仲間に囲まれるようになりました。おそらくレビは、自分のような者が主イエスに招かれたのだから、あなたも招かれていると、食卓に誘ったのではないか。レビが誘った食卓は、主イエスを中心とした食卓で、私どもの礼拝のことだと考えることができます。私どももまた、わたしのような者も赦されて教会の一員だから、あなたも一緒に礼拝に行きましょう、と生きることが赦されているのです。
わたしは洗礼の準備会でお話ししたことがあるのですが、わたしのような者が牧師として赦されて働いていますから、あなたも大丈夫です。一緒に仲間になりましょう、主イエスに従いましょう、と心から励ますのです。
この度、主の深い御心によって、白鷺教会に遣わされることになりました。自分が思う前から主は御心の内にとめて導いてくださっていたのです。「わたしに従いなさい」と、主の御声を聞いたのです。喜んでお従いしました。
教会は、赦された罪人の集まりです。神の家族とも言われます。その神の家族の中心は、言うまでもなく主イエス・キリストです。主が尊い命を献げても惜しくはないと、それほどに愛してくださった、主の愛に生きるのが教会です。
教会生活の中心も、はじまりも、主の御言葉を共に聞く礼拝です。礼拝の喜びに生きて主の救い、主の愛を生きて、伝えていきましょう。レビが生涯そうであったように私どもも、わたしのような者がキリスト者ですからあなたも大丈夫です、仲間になりましょうと、主を伝える喜びと救われた感謝に生きていくことができるのです。
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