【待降節第2主日】
礼拝説教「人を生かすもの」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 8:31-9:1
<讃美歌>
(21)26,14,242,303,65-1,29
先週、8章の27節以下を学んだのですが、8章27節から9章にかけては、マルコ福音書のひとつの山があります。確かに、弟子たちの代表として、ペトロは、はじめて主イエスを、救い主(メシヤ)と告白することができました。そして、今日与えられている箇所には、主イエスがはじめて弟子たちに、救い主として自らおかかりになる十字架と復活をお語りになっています。そして、9章の2節以下では、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて、まさに山に登られます。そこで、主イエスの姿が変わるのです。あるいは、主イエスのほんとうの姿をあらわされたと言うべきところです。とても大切なマルコの山があるのです。
実際に山登りをするときは、平地を歩くときことは違って、言われなくても歩幅が小さくなるものです。急な坂になればなるほど、歩幅を小さくして登るものです。今日の箇所を含むマルコの山も、少しずつ歩幅を小さくして学びましょう。
与えられています箇所は、主イエスが救い主として、十字架の苦難を受けられ、三日目に死からよみがえられることを、はじめて弟子たちに話しておられます。
31節「それから、イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
ここで主イエスは自らのことを「人の子」と呼ばれます。御自分のことを「救い主(メシヤ)」あるいは同じ意味ですが、「キリスト」とは呼ばれなかった。「人の子」というのは、旧約聖書では、通常人間のこととして用いられますが、主イエスは、全く私どもの一人となってくださったということです。あるいはまた、旧約聖書のダニエル書では、「人の子」というのは、やがてきたるべき、神の救い主の意味で用いられているのです。
ですから、ここで、主イエスが自らを「人の子」と呼んでおられるのは、いよいよ、人となられた神、神の独り子である自らを明らかにしておられる。マルコは、「人の子」という言葉を救い主である主イエスを指す言葉として用いています。
あるいは、このように考えることもできます。それは、「メシヤ」「キリスト」と呼ばれずに、「人の子」という称号を用いられたのは、人々の誤解した、ズレた救い主のイメージに乗っからないためであると言われます。どういうことでしょうか。
当時人々は、イスラエルの民、旧約の民にもたらされると約束された、救い主を待ち望んでいました。しかし、彼らが待っていた救い主のイメージは、神が遣わそうとされる救い主とはズレていたのです。人々は、力に対して力で対抗してくれる、英雄のような救い主を待っていました。ローマから政治的・軍事的に自分たちを解放して、新しい王国をこの世に建設してくれる王を待っていたということです。少なからず、ペトロをはじめ弟子たちも、その影響は受けていたはずです。
ですから、ペトロをはじめとする弟子たちのズレが、しっかりと正されるまでは、主イエスが、救い主であることは、だれにも話さないようにと言われたのです。
30節「するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」
しかし、ある方は、今日の箇所を聞いてあれっと思われたかもしれない。それは、弟子たちに、御自分のことをだれにも話さないようにと戒められた主イエスが、ここで、はっきりとお話になっているからです。32節「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」ここで「はっきり」と訳されているのは、「公然と」とか、「大胆に」とか訳することできる言葉です。ズレた救い主の姿を思い描いていた人々に、主イエスは、公然と自らを明らかにしていかれたということです。
主イエスが、「公然と」「大胆に」御自身をはっきりとお示しになったときに、ペトロはついていくことができなかった。32節「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」とあります。「いさめた」という言葉は、この後、主イエスがペトロをお叱りになった、その叱られた、という言葉と同じです。ですから、ペトロは、イエスを叱った、ということです。救い主が苦難を受けて、死なれ、死からよみがえられることをペトロは自分の力では信じられなかった。むしろそんなことがあってはならないと思ったのです。そして、自分が教える立場に立った。主イエスを自分の後ろに従えようとしたということです。
それに対して、主イエスは、33節にありますように、「振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」
「振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。」ということは、弟子たちみんなが言われたということでもあるのです。ペトロが代表で叱られた、ということでもあります。どのように叱られたのでしょうか。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」この厳しい主イエスの言葉をどう理解すべきなのでしょうか。ある方は、とまどわれるかもしれない。とまどうのは、主イエスの言葉を神の言葉として、はっきりと聞きたいと思うからです。「あなたはサタンのようだ。」と言われれば、少し和らぐかもしれない。あるいは、「あなたの中にあるサタンを追い出す」と言われれば受け入れやすいかもしれない。しかし、ペトロは、確かに、主イエスから「サタン」と言われている。 主イエスの言葉の真意を理解するには、ある神学者は、「引き下がれ。」という言葉にあると言います。 「引き下がれ。」というのは、「私の後に回れ」という意味です。ペトロは主イエスの前に来て教えようとした。従おうとしないで、自分の経験と考えで、自分に従わせようとした。だがら、「サタン」「悪しき者」と呼ばれたというのです。私どもはどうでしょうか。
主イエスがペトロに「あなたはサタンだ」と言われたからといって、裁いて捨て去られたのではない。「引き下がれ。」「私の後ろに回れ」、そして私の後に従いなさい、と言われたのです。むしろ、このまま行けば神の御心とのズレが取り返せなくなり、信仰を見失うであろうペトロを、すぐに引き戻して、私の後ろにもう一度回れ、と厳しく言われるのは、神の愛の言葉です。
私どもは、罪深く迷いやすい。しかも高ぶりに陥って、主イエスの前にでることがある。知らずにそこに陥っていることがある。その時、主イエスは、「あなたはサタン」「引き下がれ。」「私の後ろに回れ」、と厳しくも愛をもって戒めてくださるのです。私どもは、「引き下がれ。」「私の後ろに回れ」という主イエスの言葉を、神の愛の言葉として聞くべきであります。
33節「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
私ども達は、自然と神のことを思ったり、思い出したりしているでしょうか。むしろ、自然と、自分のことを考えていく者ではないでしょうか。信仰生活においても、自分を中心とした利己的な信仰に陥りやすいところがあるのです。
旧約聖書のダニエル書に、ダニエルたちのことが記されています。彼らは迫害を受けて、殉教の死を献げようとしていた。そして必ず神が助けることができると信じていました。しかしたとえそうでなくても、殉教するとしても、神の御心にすべてをゆだねていったのです。それは、たとえ、死ぬことがあっても、神の命の内に目覚めることができるという希望に生きたということです。ダニエルたちは、獅子たちがいる場所から、奇跡的に助け出されたのですが、「たそえそうでなかったとしても」と主なる神にゆだねていった信仰者にならっていきたいと思います。
利己的な信仰に陥りやすい私どもに、神の御心を求める信仰をお与えくださるのは、神の恵みです。「引き下がれ。」「私の後ろに回れ」と、主イエスからお叱りを受けて、主イエスの後に従いたい。そう願います。
主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34)と語りかけられます。
マルチンルターは、この箇所について語った説教の中で、「自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」という、主イエスの言葉を聞いて、私の十字架はどこにあるかと探す必要はない、と言ったというのです。主イエスが私どもを愛して受け入れてくださったように、主イエスの愛に生きて、まわりの人を愛するときに、すでに十字架を負っているというのです。
主イエスの後に従う者は、主イエスが十字架に私どもに代わって審きを受けてくださったことを信じて従っていくのです。それは、主イエスが赦して受け入れてくださった、神の愛を信じて従っていくことです。神の愛に生きる歩みの中で、自らが赦されたように、自分もまた人を赦して受け入れ、愛していく幸いが与えられていくのです。
日々に祈りつつ、一歩一歩、神の愛に動かされる幸いに生きていきましょう。
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