【降誕節第1主日】
礼拝説教「祈りは呼吸」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 9:14-29
<讃美歌>
(21)26,17,271,497,65-1,29
2021年の最後の聖日礼拝です。ここまで主が守り支えてくださったことを信じて、感謝をささげましょう。
主に感謝をささげる中で、心に響いてくる聖書の言葉があります。
「神の恵みによって、今日(こんにち)のわたしがあるのです。」(コリント一15:10)かつて、パウロが告白した言葉ですが、代々にわたって教会が愛してきた告白でもあります。
神の恵みというときに、そこには、目に見える、礼拝生活が含まれるのは言うまでもないことです。神の恵みというときに、互いに祈り支えられていますが、それも神の恵みであります。主イエスの救いによって、呼び集められた私どもが、互いをおぼえて祈ってここまで来ましたが、その祈りの生活の中にも神の恵みのお働きがあることを感謝していきましょう。
マルコによる福音書から、礼拝で主の語りかけを共に聞いていますが、マルコ福音書の第一声は、
「神の子イエス・キリストの福音の初め」でありました。
マルコによる福音書が、その福音書全体に響きわたるようにして、語りはじめている言葉です。
しかし、そのことは、決して過去のことではなくて、今もなお教会に響いている言葉です。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と、礼拝をささげる中で、共に神の子イエス・キリストの福音を聞いていくのです。そして、主イエスの福音を聞いて養われていきたいという願い、祈りが与えられていくことは、昔も今も変わりのないことです。
今日与えられています箇所で、私どもは、どのように、主イエスの福音を聞くのでしょうか。神の子イエス・キリストの福音の響きを、どう聞き取るのでしょうか。
ここにどのようなことが起こったと記されているか、改めてお話しする必要はないでしょう。山からおりてこられた主イエスに、ある父親が必死に息子を助けてくださるように願い出るのです。しかし父親は信仰を求められます。とても信じ切ることができない中で、「信仰のないわたしを助けてください」と祈るように願います。この父親の祈りを聞いてくださるところに、主イエスの福音があるのです。私どもも、「信仰のないわたしを助けてください」と祈ることができるのです。自らの不信仰を感じたり、信じてゆだねきれなくても、そこでこそ「信仰のないわたしを助けてください」と祈ることができるのです。
さて、8章の27節から、9章の13節にかけて、マルコ福音書のひとつの山がある、と前に申しました。8章29節にペトロが、「あなたは、メシヤです」と、主イエスがメシヤ(救い主)であることを告白しています。
しかし、この箇所では、弟子たちは、主イエスのようには、癒しを与えられないでいます。それは、ペトロやヤコブ、ヨハネがいなかったからではない。同じこととして記されているのです。
主イエスは、そのような現実を前にして、嘆きを発しておられる。
19節「なんと、信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」
ある方は、イエス様も、私どもと同じように、我慢も限界に来て、嘆かれるのだと思われるかもしれない。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」
しかし、嘆いておられのは、信仰のない、人の現実であります。それは、過去のことではない。むしろ、ますます嘆くべき状況ではないかと思います。
あるいはまた、弟子たちは、ここで、とても恥をかいています。イエスの弟子だというのに、同じように癒すことができないのか。イエスはすごいが、お前たちは何だ、というものです。主イエスを、うつし出すような弟子ではないということです。そのことは、癒やすことができたかどうかよりも、主イエスがどのような救い主かが、まだよく分かっていなかったことをマルコは伝えています。
この箇所に続いて、主イエスは再び十字架におかかりになり、復活なさることを語りかけられます。それは私どもに代わって神の審きを身に受け、復活されて救いの道を切り開かれるためです。
弟子たちはまだ、「あなたは、メシヤ(救い主)です」という信仰告白が、彼らの体の一部とはなっていないのです。しかし、そのことは、決して過去のことではない。今もなお、私どもは、主イエスの言葉を聞く必要があるのです。
「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなけ ればならないのか。」
先ほど、主イエスも私どもと同じように、我慢も限界に来るのか、という意味のことを話しました。確かに、同じようにも聞こえます。しかし、ある神学者が指摘するように、ここにある嘆きは、私どものように、相手を捨て、切り離すような思いで語られているのではないのです。むしろ、なおも、私どもを教えて、用いようとする思いを込めて語られている。それは、私どものように、嘆いて相手に怒りをぶつけているのではないのです。その言葉を聞く者に、信仰を与える言葉として、厳しくもまた深い思いを込めて語られている。だからこそ、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と語られるのです。
「わたしのところに来なさい。わたしは、いやすことができる。慰めを与えることができる。」と語りかけておられるのです。
主イエスは、父から話を聞かれます。そして、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と願い出る父親に対して、こう語りかけられます。
23節「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
この子の父は、主イエスの厳しくもまた、深い愛の言葉により、導かれて応答します。とても有名な言葉です。
24節「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
ある神学者は、この告白について、「聖書に記されている、あるいはもっと広く言うと、これまでの人間の歴史の中で語られている、すべての信仰告白の中でも、最も優れたもの」として、多くの人々が大切にしてきた、と語ります。
この父親は、主イエスの言葉に導かれて自分を見たときに、自分の中には、信仰を見いだせなかった。ある意味で、不信仰以外の何もなかった。しかし、それでも、神の恵みの光に照らし出されて、告白することができた。自分の中に信仰を見いだせないことが、神の審きにつながるとは考えられなかった。そのような自分を、神にあずけるようにとの招きを受けていた。神の恵みに照らし出されていたということです。
ひとりの父親は、自分の可能性の外に出て、告白することができました。
24節「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
この告白、真実な祈りを私どもも告白し、祈ることが赦されています。礼拝において、御言葉が語りかけられ、改めて、信仰のなさを照らし出されるときにも、それで審かれるのではなく、そこにおいてこそ、祈ることが赦されているのです。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
「主よ、あなたにおゆだねします。信仰のないわたしをお助けください。」
信仰は元々、神からさずかるものです。私どもが生み出すものではない。一度獲得したら、もはや、神の助けなど要らないというものではないのです。
日ごとに食して生きているように、日ごとの霊的な糧を、まさに信仰を与えられ続けて私どもは信仰生活を守っているのです。そのような信仰生活の中心に、礼拝があるのです。私どもの霊的ないのちの源です。
ですから、恵みの神に信頼して、共に祈ることができる。
「主よ、元々信仰のない私どもに、信仰をさずけてください。」
「主よ、信じます。信仰のない私どもを助けてください。」と祈っていきましょう。
日ごとに生きる信仰を与えられてここまでこれたことを感謝して、新しい年へと主の恵みによって押し出されて行きましょう。
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