【待降節第4主日】
礼拝説教「喜びがきた」
願念 望 牧師
<聖書>
マタイによる福音書 2:1-12
<讃美歌>
(21)26,262,260,269,65-1,29
みなさんといっしょに、子どもも大人も集ってクリスマスをお祝いしてます。
イエス様の誕生をお祝いして礼拝を献げています。
季節によって夜の長さか違いますが、クリスマスは一年で最も夜が長い時季に祝われます。
大昔は12月25日が一番夜が長い日、冬至と考えられていました。
冬至をさかいにして、だんだんと夜が短くなりこれから春へと向かっていきます。
春はどういう時季かというと、厳しい冬を乗りこえて、命が芽生えるときです。
神様が、私たちにいろんなことを乗り越えて春をもたらしてくださるように、祈り求めていきましょう。
みなさんは、冬の思い出というとどんなことがあるでしょうか。
自分のことですが、冬が来ると、青森の教会にいた頃の冬を思い起こします。2004年4月から2011年3月までいました。
毎年この時季は雪が積もっていました。冬が来る度に雪かきに追われたものです。
大雪が降った日曜日の朝は、膝上まで雪が積もりましたから、雪かきで朝から汗だくになることもありました。
雪には苦労したのですが、雪が降って良かったことが、ありました。それは、夜が明るくなることです。それと、雪がとけて春が来たときに、春はこんなにうれしいのかと思いました。
イエス様が生まれたその夜、雪は積もっていなかったと思いますが、ベツレヘムの町を星が明るく照らしました。
東方からきた学者たちは、神様の光に照らされて、救い主がいる場所にたどり着きました。
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」のです。
学者たちが東の方のどこから来たのかは書かれていません。
しかし当時の東方にある都市を考えると、一ヶ月以上かかる長旅をしてきたと思います。
厳しい旅だったことでしょう。たくさんの費用がかかった、一生に一度の旅だったでしょう。
しかし救い主に会って礼拝するための労苦は、喜びでしかなかったのです。
「学者たちは・・・喜びにあふれた」彼らはついにお目にかかって礼拝することができました。厳しい冬を越えて、春をむかえたような喜びにあふれたのです。
学者たちは、救い主を礼拝して拝み、心からの贈り物を献げました。
黄金と乳香、没薬です。
黄金、乳香、没薬について、どういう意味があるか、教会での昔からの理解があります。
黄金は、当時、王が民の中で最も多く所有するものでした。
ですから黄金は王のしるしで、イエス様が私たちの、まことの王となってくださったことを示しているのです。しかし世の王のように、力尽くで支配する王ではなく、救いの恵みによって私どもを治めてくださるのです。
乳香は、礼拝で用いられたものです。乳香は樹木の樹脂が固まったもので、燃やすと甘い香りがします。神様に献げる礼拝で、乳香の香りが用いられました。ですから、乳香は神様のしるしなのです。
イエス様は、救い主として、私たちと全く同じ人としてお生まれになりました。
まことの人であり、また、まことの神様です。その神様であるイエス様に乳香が献げられたのです。
没薬は、黄金、乳香と共に、とても高価なものですが、人が死んだときに、お墓におさめるときに使われました。お墓に入れるときに体に塗る香料として用いられたのです。生まれたばかりの赤ちゃんに没薬とは不思議な思いがするかもしれません。
イエス様は、救い主として生まれ、やがて私たちに代わって十字架に命を献げてくださいました。神の審きを私たちに代わって、その身に受けてくださったのです。イエス様の命が献げられたことによって、救いの道が神様のところまで通じるようになりました。ですから没薬は、救い主のしるしです。
やがて、没薬を体に塗ってお墓に入れられたイエス様は、復活されて今もなお、近づく私たちを助けてくださいます。まことに、イエス様は私たちの救い主として、今もなお働かれ、私たちを導いてくださるのです。
学者たちは、「宝の箱を開けて」贈り物を献げたとあります。
ふと、その宝の箱には他に何が入っていたのだろうか、と気になった方があるでしょうか。
おそらく他には、何も入っておらず、空の箱といっしょにすべてを献げて帰っていったのだと思われます。
ある神学者は、宝の箱に入っていたものは、占星術(星占いのようなもの)の道具ではなかったかというのです。
たとえば没薬を混ぜて紙に何か文字を書くと、それがお守りのように大切にされたと言います。
そのすべてを献げて帰っていったというのは、もはや学者たちには占星術は必要がなくなったということです。その道具、宝の箱を全部、イエス様のもとに置いてきたのです。
なぜなら、イエス様が学者たちの道しるべ、となられたからです。彼らを照らして導く光となってくださったのです。自分のすべてをゆだねていく救い主が見つかったのです。
私たちもまた、イエス様を道しるべにして生きることができます。救い主にすべてをあずけて生きていく喜びが用意されているのです。
救い主であるイエス様は、私たちの喜びそのものです。
これからもイエス様のもとに集って、いっしょに礼拝を献げる喜びに、いっしょに祈っていく喜びに生きていきましょう。
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