【待降節第3主日】
礼拝説教「主イエスに聞け」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 9:2-13
<讃美歌>
(21)26,16,241,55,65-1,29
クリスマスを待ち望むアドベントのときに、ある聖句を思い起こしました。「あなたが たは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽く せないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(ペトロ一 1 章 8 節)ペトロが、各地の 初代教会の仲間を見たときに、そこに驚きを与えられました。それは、主なる神はすばら しいことをなさる、ということ。ペトロは、主イエスに実際にお会いして従っていたのに、 すぐにはふさわしく信じることができなかった。主イエスが捕らえられたときに、主イエ スを捨てて、逃げてしまうということさえあった。しかし、「あなたがたは、キリストを 見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい 喜びに満ちあふれています。」と神をほめたたえているのです。それは神のなさる恵みの 出来事です。その神の恵みは受け継がれて今に至っています。神の恵みは、現代に生きる 白鷺教会にも与えられているのです。
聖書が語る救いは、人間的な熱心や才能では、とても受け継いでいくことができないも のです。歴史の厳しさや人の愚かさ故に、途絶えてしまいそうに思えても、主なる神がお られるので、恵みによって信仰を受け継がせて今に至らせておられます。「言葉では言い 尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」と告白されている、主イエスを信じ て愛する喜びは、私どもの教会にも与えられているのです。
「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」と告白されている 聖書の御言葉を思い巡らしながら、私は、今日与えられています、マルコ9章と重なる思 いがしました。それは弟子たちがやがて、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満 ちあふれて」いったからです。その出来事をマルコは、過去のすばらしいこととして記し ているのではないのです。山に弟子たちを連れて登られたときに、主イエスはまばゆいば かりの姿を現されていかれました。そのまばゆさ以上に、そこにいた弟子たちは、やがて 喜びにあふれたのです。やがて、と言いましたのは、まばゆい姿を見たときではなくて、 主イエスが十字架におかかりになり、復活されたあとだからです。しかも主なる神の霊、 キリストの霊である聖霊が来てくださって教会が生まれたときに、ペトロたちははっきり と信じて喜びにあふれていった。ある意味で、現代の教会の私どもと同じです。
実際に見たか、見ていないかの違いはありますが、同じ神の恵みのお働きにあずかって いるのです。よく考えてみれば、とてももったいない神の恵みを受けているのです。
さて主イエスが、山に登って祈られたときに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、 登られました。私どもは、このような箇所を読むときに、特別な弟子たちであったと見な してしまうのです。しかし果たしてそうでしょうか。
教会は、キリストの体であると言われますが、体にたとえるなら、重要な部分である、 ペトロ、ヤコブ、ヨハネと見てしまいます。しかし立ち止まって思い巡らしてみたいので す。キリストの体である教会について、コリントの信徒への手紙一12章22節には「そ れどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」とあります。
ある神学者は、ただ、彼らを証人として連れて行かれたに過ぎない、という意味の説教 を語っています。旧約聖書には、「二人ないし三人の証人の証言によって」とあるからで す。(申命記 19:15)
さらには、こうも考えられます。ヨハネには、ボアネルゲス、雷の子というあだ名があ りました。そのヨハネやペトロ、ヤコブは、ほかの弟子たちよりも、弱さを持つ者たちで あって、主イエスは、何かと近くに置いておられたと考えられます。いろいろと、学ぶ機 会を与えられたということです。どのようにして、学ぶ機会を与えられたかといういうと、 一緒に神の恵みのうちに休ませることによって教えていかれた。ある意味で、訓練の機会 を与えられた。訓練というと、厳しい訓練というように、つらく厳しいものを想像します。 そのような訓練もあるでしょう。しかし、主イエスは、ご自身の恵みのうちに彼らを休ま せることによって、かえってきびしい訓練よりももっと彼らを変えていかれた。厳しい経 験をすると、私どもはそのような経験をしたこと自体が自慢になるのですが、残念なこと に、私ども自身は何も変わっていないことがある。かえって、自分と同じような経験をし ていない人を裁いてしまうことがある。
主イエスは、恵みによって彼らを変えていこうとされている。それは、この礼拝の安息 を通して与えられる恵みと同じであります。
9章2節には「六日の後、」とあります。それは七日目にということ。神学者たちが指 摘するように、ここは、創世記の主なる神の創造の記事を思い起こすことができます。天 地創造の七日目に神はあえて休まれ、その日を聖なる日として私どもに与えてくださいま した。神と共に神の恵みに休むことによって養われ、造りかえられていく場を与えてくだ さったのです。いろんなことがあったとしても、自分の居場所を見いだして魂を休めるこ とができる場として、礼拝を与えてくださった。山に登られた主イエスは、弟子たちと共 に休んでおられるのです。
とても不思議な箇所ですが、エリヤと、モーセが共に現れて、主イエスと語り合ってい た、とあります。
エリヤとは、預言者の代表だと言われます。
モーセとは、神の戒め、十戒を受けとった人です。律法である、神の戒めを受け取った 人ですから、モーセは律法の代表と言うことができます。
モーセとエリヤが律法と預言者の代表だと言いましたが、律法と預言者というのは、旧 約聖書全体を表す言葉でもあります。エリヤとモーセが現れたことは、旧約聖書の預言と 律法が、主イエスにおいて成就する、ということがここに示されているということでもあ ります。主イエスが、「エリヤは来たが」(13)と言われたことがわかりにくいかもしれま せん。それは洗礼者ヨハネが、エリヤのような預言者として救い主である主イエスを指し 示したのですが、人々は信じようとはしなかったということです。
ある冬に休暇をいただいて、福島の親戚を訪ねたことがあります。本当に喜んでくださ った。しっかり休むことも必要ですので、スキーに行ったのですが、スキーに行って気をつけるのは、リフトで登っていく山を自分がスキーで下りてこられるかよく考えてリフト に乗るということです。
主イエスは、弟子たちを連れて山に登っておられるのですが、降りていくこともよく考 えておられる。彼らが休みを与えられて、またしっかりと生きることができるようにとご 自身を明らかにして教えておられるのです。
よくこの箇所の主イエスの姿を指して、変貌とか、姿代わりと言われます。しかし、そ れでいいのかと疑問に思います。それは、主イエスがむしろ、弟子たちに、隠されている ほんとうの姿を現されたと見るべきだからです。
マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と語りはじめますが、こ こにおいても主イエスは、その神の子のいのちの輝きをあらわにしておられます。弟子た ちに、主イエスが共におられることがどんなにすばらしく、いのちと喜びにあふれている かを教えようとしておられるということです。しかも、雲の中からの声は、父なる神の声 と理解できますが、「これはわたしの愛する子。これに聞け」(7)と語りかけられます。 主イエスに聞くことが、私どもに安息が与えられ、主なる神からの喜びにあふれていくの です。
この箇所が、実際には、どういうことが起こったか、疑問が投げかけられたことも事実 です。そのようなときには、人が理解しやすい、さもそういうことならあり得るだろうと いう説明がなされる。たとえば、ここは、元々は幻を見たに過ぎないというものです。
しかし、神学者の加藤常昭先生が、この箇所に関する説教の中で、幻を見たに過ぎない のなら、そこから、初代教会が、主イエスにいのちをすべて預けて殉教に身をゆだねてい くということが起こっただろうか。という意味の言葉を語っています。
マルコの教会の人々は、この箇所の御言葉に生きました。それは、幻ではなくて、実際 にこのような経験をしていったのです。神と人とを愛して、主イエスに従う中で、自分た ちが生み出す喜びではなく、主イエスの復活のいのちの輝き、神からの喜びに与り続けた とうことです。キリストの御言葉に聞く喜び、そこでこそ、まことの安息、休みが与えら れていく恵みに生きていきました。私どもも、このアドベントの時、私どもが主イエスの 御言葉に生きることができるように、私どものひとりとなってお生まれくださった恵みを 感謝していきましょう。
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