【降誕前第7主日】(召天者記念日礼拝)
礼拝説教「天を開いてくださる」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 7:31-37
<讃美歌>
(21)24,120,382,532,64,29
この朝は、召天者記念日礼拝を献げています。朗読した交読文の中に、このような言葉がありました。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:3-4)
この箇所は、葬儀の際に、最後の別れを前にして朗読する神の言葉のひとつです。神のものへと愛する者を送る時の、約束の言葉として信じて読みます。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と信じて祈るのです。
キリスト教会は、礼拝を献げる時に、神様が天を開いてくださって、天と地がつながっていくと信じてきました。天が開いて、私どもの祈りが主なる神に届くのです。神のもとに召された先達たち、愛する者たちともつながって礼拝を献げていると信じることができるのです。
ですからこの礼拝において、召天者が「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」喜びに生かされていることを信じて、改めて神にゆだねるのです。さらには、天の神のもとから届く語りかけは「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と私どもを励ますのです。悲しみや嘆きや労苦がある中にも、それが喜びに変えられる時があるという、神の慰めの祝福が、私どものところにも、将来からさし込んでいるのです。
私どもが将来へと近づくのではなく、むしろ、主なる神が、私どもの将来として近づいてくださるのです。主なる神こそが、私どもを慰め、支えながら、将来をもたらしてくださることを信じて、これからも神の恵みに照らされて生きたいと祈り願います。
さて宗教改革者のマルティン・ルターは、教会音楽家としても知られています。讃美歌21にも、10曲が納められており、かなり多い部類です。そのルターは、音楽について、「音楽は2番目の座を与えられるべきであり、その前に来るのはただ福音のみであると強調していた」というのです。その音楽に対するルターの信念は、ルターの神学と呼ぶべきものですが、そのルター(1483-1546)のあり方にことごとく従った有名な音楽家がいると言われます。
それは、バッハ(1685-1750)です。ある学者が指摘するように、バッハはルターの信念にことごとく同感しており、ある手紙の中でこう断言しています。「音楽の唯一の目的は、神の栄光が顕され、人の魂が再生されることでなければならない。」
バッハは、作曲に取りかかると、楽譜の余白に、よくラテン語の頭文字で、イエスよ、われを救いたまえ、と書いたり、あるいは、イエスの御名において、と書き込んだというのです。そして、楽譜の終わりには、必ず、SDGと書いた。SDG(Soli DeoGloria 神にのみ栄光あれ)
なぜこのようなことをお話ししているかといいますと、今日与えられています箇所に、バッハがSDG(神にのみ栄光あれ)と書いたことと響き合うような箇所があるからです。 37節「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」
ある神学者が、この箇所に関する説教の中で、この言葉は、マルコ福音書で、ひとつの幕が締めくくられて次へと行く、まとめの大合唱のようなものだ、という意味のことを語っています。確かに、この箇所で記されているのは、ひとりの人の癒しです。耳が聞こえず舌の回らない人がいやされた、そのことだけでもすばらしい、驚くべきことです。しかし、ひとりの人になされた神の出来事に重ね合わせるように、マルコは「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と告白しているということです。これまで記されてきたすべてのことが、いや、すべて書き記すことができないそれらをも含めて、主イエスのみわざに対して、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と告白されているということです。
「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という讃美の背景には、創世記の1章31節の言葉があると言われます。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第6の日である。」
あの創造のはじめに、主なる神がお造りになったすべてのものを御覧になって、極めて良いものであるとされた、その時に、神のみ使いたちによる、神をたたえる大合唱が響きわたったはずです。その讃美に連なるものとして、この箇所の讃美を聴くことが出来るのです。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」
マルコによる福音書は、復活された主イエス・キリストが今も同じみわざをもって働いておられることを信じて記しています。ですから、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」というのは、「主イエスのなさることはすべてすばらしい」ということでもあります。
主イエスは、この箇所で、「人々に、だれにもこのことを話してはいけない」(36)と命じておられます。どうしてでしょうか。それは、主イエスがいやすお方としてだけ、伝えられることを避けていかれたということです。いやすことで終わらないで、この人を救いに導こうとしておられるということです。
ですから、いやしそのものを救いとして伝えてはならないと言われる。聞こえなかったのが聞こえるようになり、舌のもつれが解かれて話せるようになったのに、それを伝えてはならないとお命じになるのです。
もちろん、マルコはこのいやしを喜んで記しています。私どもも、どんなときにも、希望を捨ててはならない。神のいやしを信じて祈ることができます。しかし、いやされる以上に、その人が神のものとされて、罪赦されて救われていることが、何にも代えがたい喜びであります。マルコは、その救いの喜びをこそ伝えているのです。そして、その喜びに至るひとつの幕の締めくくりとして、讃美の言葉を記しています。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」ですから、この方のなさったこと、というのは、主イエスの言葉とわざのすべて、すなわち、十字架と復活の救いに至るものなのです。
主イエスは、この人に会うために、ティルスの地方から、ずいぶんと大回りをして、来られています。31節「それから、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」あとで地図を見ていただきたいと思いますが、それは直線で行けるところを、まるで半円を描くように大回りしておられる。
しかし、私はそのような主イエスの歩みに福音を感じます。それは、周辺地域をまわっておられるからです。ある意味で、エルサレムの人々からは、見捨てられた人々とされていたところへとまわって行かれている。
あるいは、このようにも思います。それは、まっすぐ歩めばいいのに、自分でもどう歩めばいいか分かっているようで、回り道をしてしまう、その私どもと共に歩んでいてくださる主イエスを、ここに見る思いがするということです。
ひとりひとりをたずね歩くようにして、主イエスがガリラヤ湖のほとりに来られたとき、人々は、ある人を連れてきた。その人は、耳が聞こえず舌が回らなかった。
主イエスは、彼ひとりを群衆の中から連れ出されます。それは、御自身の恵みの中へと招き入れられた。もっと強い言い方がゆるされるなら、主イエスの恵みにひきづり込まれた、ということです。
主イエスは、天を仰いで深く息をつかれた(34)と記されていますが、「深く息をつき」という言葉は、別の有名な箇所にも用いられている言葉です。それは、私どもが祈るときに、私どもは祈る言葉を元々持ち合わせていないで、どう祈ったらいいか分からない。その時に、神の聖霊が助けて、「言葉にならないうめきをもって執り成してくださる。」(ローマ8:26)とあります。「うめきをもって」という言葉が、「深く息をつかれた」と訳されている言葉と元々同じです。
ですから、主イエスはここで、祈る言葉を持たない彼に代わって、うめきをもって祈っておられる。そのことは、たとえ話せても、元々、神に届く祈りの言葉を持たない私どもに代わって、主イエスは、御自身の恵みによって祈り、とりなしてくださるということです。あるいは、神の言葉を聞き取ることができない私どもを憐れんで、主の御言葉を聞くことができるように、私どもの心の耳を開いてくださるのです。
主イエスは、愛をもって語りかけ、「開け」(エッファタ)と彼をいやされました。彼は、いままで舌が回らなかったのが、回るようになった。舌のもつれが解かれた。話す言葉を与えられた。それは、神を讃美する言葉が与えられた、ということです。あるいは、祈る言葉を与えられたということであります。
主イエスは私どもにも、「開け」(エッファタ)と語りかけてくださるのです。
しかも、天を仰いでうめき、「開け」と命じて、天を開いて、礼拝において、天と地をつながるようにしてくださるのです。
天の神のもとから届く語りかけは「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」と私どもを励ます語りかけです。うめきがあり、悲しみや嘆きや労苦がある中にも、それが喜びに変えられる時があるという、神の慰めの祝福が、私どものところにも、将来からさし込んでいるのです。
私どもが将来へと近づくのではなく、むしろ、主なる神が、私どもの将来そのものとして近づいてくださるのです。主なる神こそが、私どもを慰め、支えながら、将来をもたらしてくださることを信じて、これからも神の恵みに支えられて生きていきましょう。
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