【待降節第1主日】
礼拝説教「救い主を知る」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 8:27-30
<讃美歌>
(21)24,155,233,404,64,29
この朝は、アドベントの最初の礼拝をささげています。アドベントはクリスマスの準備の期間で、待降節とも言います。礼拝でマルコによる福音書を少しずつ学んで、今日の箇所の御言葉を、クリスマスを待ち望む最初の礼拝で聞くことができるのはとてもすばらしいことです。それは、この福音書の中心的な箇所だからです。クリスマスは、主イエスの降誕を喜び祝うときですが、その主イエスが誰であるかがはっきりと弟子たちにも分かるようになった話が記されています。私どもも、主イエスが誰であるかをはっきりと教えられて、心から主イエスに信頼する喜びに生かされていきたいと願います。
主イエスは、弟子達に質問しておられます。27節「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」弟子たちの考えを聞く前に、人々はどう話しているか、問われているのです。
ある人々は「洗礼者ヨハネ」と言った。「洗礼者ヨハネ」はすでに殉教の死を献げて、殺されていました。最後の預言者と言われます。その生まれ変わりだというのです。
また「エリヤ」というのは、旧約聖書の預言者でもっとも力ある預言者とされていたようです。その再来だというのです。
あるいは、「預言者の一人だ」というのは、そのような神の預言者の一人だ、ということです。
いずれにしても、人々はたぐいまれなる存在として認めている。しかし、そこまでです。人が生み出す信仰は、そこまでということでしょう。どんなにすぐれた人であっても、自ら悟って、救い主である神の子イエス・キリストを知ることはできないのです。
新共同訳聖書は、礼拝で読まれ、それが、直接の神からの語りかけとして聞かれるように言葉を整えたと言われます。それは、もともと聖書が神の語りかけとして聞かれるように記されたからです。
ですから、29節の問いかけは、マルコは、自分たちの教会への問いかけとして記しているのです。「そこでイエスがお尋ねになった。『それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか。』」これは、私どもへの問いかけでもあります。マルコは、この福音書を聞く人たちが、自分たちへの主イエスからの語りかけとして聞くようにも記しているのです。
主イエスの問いかけに、ペトロは、「あなたは、メシアです。」と応答します。それは、単なる質問の答ではなく、信仰の告白です。そこに、自分の存在をかけていなくては告白出来ないものです。
「メシア」というのは、救い主という意味でペトロは用いていますが、元々は旧約聖書で油注がれた者という意味です。神の特別なご用のために、特別に頭に香油を注がれて、その力を与えられた者のことで、それは、祭司や王、預言者に代表されます。しかし、ここでは、それらの油注がれた者がすべて、やがて来るべき、ただ一人の救い主(メシヤ)、を指し示している、その意味で語られているのです。
ペトロがその信仰を告白しているのは、あなたこそは、待ち望まれていた救い主、メシヤだということです。
メシヤは、旧約聖書で救い主の意味ですが、新約聖書では、キリストのことです。
ですから、「あなたは、ずっと待ち望まれていた救い主キリストです。」とここで告白しているのです。
マルコ福音書は、1章1節の冒頭で、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と語りはじめられたのですが、ここにおいても、その喜びのおとずれを響かせています。弟子の代表として、ペトロがやっと、イエスが誰か分かった。イエスが、キリストであると分かった。「あなたは、神の子イエス・キリスト」と告白できるようになった、ということです。私どもはどうでしょうか。
ここでの主イエスとペトロとのやり取りは、信仰問答と呼ぶことができます。
子どものための信仰問答(カテキズム)があるのですが、その第一問に、「あなたは誰ですか」とあります。すごい質問だと思います。
「あなたは誰ですか」 「わたしは神さまの子どもです。」
私どもは、自分を誰として生きているか。私は誰それというときに、履歴書を書いたりします。あるいは、自分のよりどころを何に求めているかということでもあります。
「あなたは誰ですか」
「わたしは神さまの子どもです。」このまっすぐで素直な信仰問答を自分のものとするには、まさに、神様の恵みによるお働きによって、へりくだって神様の子どもとして生きていく必要があるのです。
また、この問答を思いめぐらす中で、先ほどのペトロと主イエスとの信仰問答と、つながってくる思いがしました。それは、どういう風にかと言いますと、主イエスが誰であるかが分かったときに、はじめて、「わたしは神さまの子どもです。」と告白できるということです。主イエスが問われます。
「あなたがたは、わたしを誰というのか」
「あなたこそ、私どもの救い主、神の子イエス・キリストです。」
「では、あなたは誰ですか」
「わたしは神さまの子どもです。」
今日の箇所、8章27節からには、マルコによる福音書のひとつの山があると言われます。山を登るには、歩幅が小さくなると思います。一歩一歩踏みしめる必要がある。立ち止まってよく味わう必要があります。
例えばみなさんの中にも、あれっと思われた方があるかもしれない。30節で、「するとイエスは、ご自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」と言われているところです。
これまでは、いやしなどの奇跡を行われたときに、これをだれにも伝えてはならない、と戒められました。それはひとつには、主イエスがいやす方としてだけ伝わることを避けて、救いを与えようとされていたからだということです。
しかし、ここでは、ペトロは、イエスを救い主キリストと、告白できているのです。これこそ、伝えるべき福音です。イエスという、ベツレヘムで生まれ、ガリラヤのナザレで育ったそのお方が、あの待ち望んでいた神の独り子、救い主である。私どもを罪の支配のもとから、神の支配のもとへと、お救いくださるのです。
しかし、この時、主イエスは、話してはならない、と言われた。どうしてでしょうか。それは、ひとつには、神の時がまだ来ていないからであります。主イエスが、十字架におかかりになり、死からよみがえられたときに、弟子たちは、そこでこそ、イエスがキリストであると、伝えるようになった。そうするように、命じられたのです。だからこそ、マルコによる福音書が記されたのです。
ある神学者は、ここで主イエスが、だれにも言ってはならない、と命じられているのは、まだ十分にイエスを理解していないからだという意味のことを語っています。確かにそうです。ペトロは、主イエスが、十字架におかかりになることがわからない。なぜそれが自分たちのためになるのか。どうしも避けられない、救い主の道であるか、悟っていないのです。メシヤと告白できたのに、まだ、主イエスの受難とは結びついていない。それを悟らせてくださるのは、聖書の御言葉に伴う聖霊の働きだけです。
アドベントはクリスマスを待ち望むときだと申しました。クリスマス礼拝で、主イエスが私どものひとりとして、まさに赤ちゃんとしてお生まれくださったことを喜び祝う礼拝を心から待ち望んでいます。
赤ちゃんというのは、どういう能力を持っているのか、いまだによく分かっていないことがあるようですが、あるとき、こんな話を聞きました。それは、どんな言語も聞き分けることができるというのです。日本人の赤ちゃんも、外国で生まれ育つと、その周りの人の言語を聞き分けて、話せるようになるということです。その意味では、赤ちゃんが、一番いい耳を持っているのです。
ある人が、主イエスのことについて、主イエスこそは、赤ちゃんのもつ能力をそのまま失わずに大人になった方だと言ったそうです。それが救い主のすばらしさだというのです。さらに、それだけではなくて、主イエスは、私どもの誰ひとりとして持ち合わせていない、神の独り子の祝福、能力を持ち合わせておられた。そして、その救い主の力を、ご自分のためではなくて、私どものために用いてくださった。救いの道を開いてくださったのです。
赤ちゃんのイエス様にお会いした博士達は、黄金、乳香、もつ薬をささげて帰って行きました。それは、彼らが肌身離さずもって、星占いのために用いていた道具だと言われます。もう、夜空に星を捜す必要がなくなった。主イエスが、彼らの道しるべ、とこしえの光となってくださったからです。赤ちゃんに会って、離れられないような思いで、いつまでも過ごしていたいと思う以上に、赤ちゃんの主イエスが、救い主であって、私どもの命の光であることが、かつての博士達にはわかったのです。神の働きがそこにあったからです。ペトロたちにも神の働きがあったのです。
私どもにも、神の働きがあって、主イエスが救い主であり、とこしえの命の光であることを教えてくださるのです。弟子たちに対してそうであったように、主は忍耐を持って、教え続けてくださるのです。心から主イエスに信頼する喜びに生きていきたいと願います。
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