【降誕前第5主日】
礼拝説教「心のまなざし」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 8:22-26
<讃美歌>
(21)24,227,120,396,64,29
マルコによる福音書を少しずつ学んでいますが、今日与えられています箇所は、前後のつながりを無視しては、読めない箇所です。ここに起こった主イエスの出来事は、目の見えないひとりの人がいやされたという、この箇所だけで独立して読めるかのように思えてしまうかもしれません。
しかし、この出来事に先立つ、先週学んだ箇所は、21節で、「イエスは、『まだ悟らないのか』と言われた。」としめくくられています。「まだ悟らないのか」という主イエスの語りかけが、心を照らすようにしてなお響いている箇所であります。直前の箇所には弟子達が主イエスをまだ十分に理解できていないことが記されているのですが、マルコはそれを自分たちの教会の姿としても記しているのです。私どももそうですが、人は自分の力によっては神を知ることには到達しないことをマルコは伝えているということです。
「まだ悟らないのか」という主イエスの語りかけは、私どもの心を照らす、神の愛の語りかけです。自分では悟ることができない私ども心を照らして、悟りをもたらそうとしてくださるのです。主イエスの愛の語りかけは、私どもに祈りが与えられるのです。主よ、あなたからの悟りによって、どうか教えてください、と祈っていきたいと願います。
弟子達の無理解、不信仰とは、どういうものであったか。それは、短く言うことがゆるされるなら、主イエスが、待ち望んでいた救い主であるとは分からずにいるということです。あのような、おびただしい人々が食べて満腹するというパンの奇跡を2度も経験しながら、そこに、私どもの命の源である、神の姿、救い主の姿を見ることができていないというのです。主イエスと共に経験した経験が、まだ自分たちのものとなっていない。そうなるには、まだ時が必要であった、ということです。
しかし、神の時が来たときには、弟子達は神の聖霊のお働きによって、主イエスを救い主、キリストと告白することができたのです。それは、自分たちが生み出した信仰ではなくて、上から、神から与えられる信仰として、主イエスを救い主と告白しているのです。だからこそ、私どもは、弟子達の姿に自らの姿を見ることができるのです。神の聖霊のお働きによって信じる喜びに生きることができることを、主イエスの御言葉によって教えられて、「主よ、あなたからの悟りによって、どうか教えてください」と祈ることができるのです。
弟子達に、いつ神の時が来たのでしょうか。主イエスを救い主であると、告白できる、神の時はいつ与えられたのでしょうか。それは、今日の箇所に続く箇所です。ですから、今日の箇所は、「まだ悟らないのか」という主イエスの語りかけと、弟子達の代表としてペトロが、主イエスを、「あなたは、救い主(メシア)です。」と告白した箇所にサンドイッチのように挟まれているのです。
そのことは、この箇所でひとりの人が、見えなかったのが見えるようになったということは、肉体の目が開かれた以上のことがここに語られているということです。心の目が開かれることを指し示しているということです。主イエスが誰であるかが分からなかった弟子達が、キリスト(救い主)であると告白できたのは、彼らの心の目が開かれたからこそであることを、この箇所の出来事は、指し示しているということです
さて、主イエスのもとに連れてこられた、目の見えない人を、主イエスは、村の外に連れ出しておられます。(23節)人々の真ん中で公然と奇跡を行われれば、そこに、人々が救い主の姿を見ることができるのではないかと、安易に考えますが、主イエスはそうはされなかった。そのようなしるしによっては、人は信仰を持つことができないことを知っておられたのです。奇跡によって、人は信仰を持てないことは、すでに前の箇所で、弟子達がよく示しています。
主イエスは、ひとりの人をいやしておられますが、ほかのいやしを記した箇所と比べて興味深いのは、段階を追って見えるようになっていることです。最初、見えるようになったとき、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」と言っています。(24)
そして、25節にありますように、さらに主イエスが「もう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」のです。ある神学者は、このことについて、こんな意味のことを記しています。それは、少し見えるようになって、再び主イエスがその手を当てられるときに、この人は、その主イエスの手が見えていたということです。まるで、主イエスの手だけを見るようにして、その目がふさがれたとき、何でもはっきりと見えるようになったのです。
私どもも、主イエスのさしのべておられる、手だけを見るようにして、その身をゆだねることが必要だということです。礼拝において、私どもは、さしのべておられる主イエスの手をどれほどに見ているでしょうか。私どもは、いつの間にか、そのまなざしを曇らせていく者です。ある意味で、絶えず見えるようにしていただく必要があるのです。ファリサイ派の人々のように、決して、神の前に自分たちは見えていると言い張り、罪を犯す者であってはならないのです。
ヨハネの福音書で(9章)、主イエスが別の目の見えない人をいやされたとき、ファリサイ派の人々が、主イエスに質問しています。「我々も見えないということか。」それに対して、主イエスは言われます。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
聖書の中では、「見える」ということが、肉体の目が見えるという意味ではなくて、信仰をもって、主なる神を見ている、という意味で用いられているのです。たとえ、肉体の目は見えなかったとしても、心では、神を信じて見えているということがあるということです。やがて、私どもは、この肉も霊も朽ちるときがある。しかし、肉の目がやがて閉じるときにも、希望がある。神は主イエスのよみがえりの命に生かしてくださるので、決して閉じることなく、なおも主イエスを信じて仰ぐことができるのです。
今日の箇所を通して、思い起こすことがあります。それは、姫路の出身教会でのことです。私が小さい頃、小学生の低学年の頃だと思いますが、昼食の時に、ひとりの目が見えない方、Kさんが、まわりの方たちに話しておられた言葉を思い起こします。それはこのような内容です。
聖書の中に、イエス様が目の見えない人を見えるようにされたのが書いてあるけれども、イエス様は私の目も見えるようにすることができると信じている。でも、私の目が見えないのは、何か意味があってのことだと思っている。
Kさんは、点字を打つのがものすごく早くて、私が興味を持って点字の道具を勝手に触ると、とてもうれしい顔をされて打ち方を教えてくださったのを覚えています。手を取って教えくださって、今にして思えば、まるで私の手先が見えているような感じでした。
Kさんは、やがての日にも、閉じないまなざしを与えられていたと思います。死からよみがえられた主イエスが、与えてくださる新しいまなざしに生かされていたということです。私どももそうでありたい。
主よ、どうか、あなたが与えてくださる新しいまなざしに生かしてくださいと、祈り求めて、主イエスのまなざしに生かされていきましょう。祈るときに目を閉じますが、そのときに、私たちの心のまなざしを開いてくださる主イエスを信じて祈っていきましょう。
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