top of page
shirasagichurch

2021年11月14日(日)聖日礼拝(子ども祝福式)

【降誕前第6主日】


 礼拝説教「イエス様の奇跡」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 8:1-21


<讃美歌>

(21)24,194,280,484,64,29

 

 今日の箇所は、比較的長い箇所ですが、ひとまとまりにして学ぶことができます。

 この箇所を読んで、どのような感想を持たれたか、お一人お一人に伺うことはできませんが、私自身、自分はどうなのだろうかと思った言葉があります。それは主イエスが「まだ悟らないのか」(21)と言われた言葉です。マルコは「イエスは、『まだ悟らないのか』と言われた」とだけ記して、弟子たちがどう応答したかを書いていません。その理由は、ひとつにはこの後に続く箇所で、段々と弟子たちに主イエスからの悟りが与えられ、深まっていくことになるからです。「まだ悟らないのか」という主イエスの言葉は、裁いて退ける言葉ではなくて、弟子たちの心を動かして悟りを与える御言葉として働いていったのです。そしてマルコは、自分たちの教会への問いかけとしても信じて記しています。読者への語りかけとして記しているということです。ですから「まだ悟らないのか」という主イエスの言葉は、私どもへの語りかけでもあるのです。


「まだ悟らないのか」と主イエスから語りかけられたとき、弟子たちはパンの奇跡を二度目に経験したあとだったのです。

 8章の1節から読み返しますと、「群衆が大勢いて、何も食べるものがなかった」(1)のです。そして、そのことを深く憐れまれた主イエスが弟子たちにどうすればいいか問いかけておられます。しかし彼らは、全くはじめてのことのように、6章での最初のパンの奇跡のときと同じ言葉を発しています。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に食べさせることができるでしょうか。」(4)

 この弟子たちの言い分は、全くその通りなのですが、どうしようもない中で、主なる神に祈ることがなかったのです。祈られたのは主イエスのみでありました。どうしようもなくて、祈ることさえできないような中で、主イエスは祈りを生み出していかれたと言うことができます。

 先ほど、自分はどうなのだろうかと思ったと言いましたが、おそらく神様がご覧になると、驚くべき無理解と不信仰があることを考えます。弟子たちは、あのようなパンの奇跡を経験しながら、主イエスが誰であるかを悟ることができないでいるのですが、私どもだったらどうでしょうか。主イエスをふさわしく信じる信仰を生み出せるでしょうか。


 信仰生活において、何かを経験したことが私どもの拠り所になることがあります。しかし何を経験したかよりも、それを通して何を悟り学んだかが大切です。弟子たちは、主イエスのパンの奇跡を目撃しました。これほど明らかな主イエスの言葉とわざはないといえるほどに、主イエスは、ご自身をまことの命のパンとして明らかにしておられます。しかし残念ながら、奇跡によっては、悟ることができなかった。それは、弟子達だけの問題ではなく、マルコは自分たちの教会の姿として記しているのです。私どもの姿として受けとめるべきであります。


 弟子たちが、主イエスの弟子として従う中で、まだ十分に悟ることができなかったそのときに、イエスを試そうとして近づく者たちがいました。敵対心を抱いて議論をしかけてきました。

 当時のユダヤの宗教的指導者であったファリサイ派の者たちが、イエスにしるしを求めてきたのです。イエスが救い主(キリスト)であることの、自分達が納得できる厳然とした証拠のようなしるしをほしがったのです。しかし、マルコが伝えています重要なことは、しるしによっては、人は信仰を持つことができないということです。ファリサイ派の者たちの要求を主イエスは退けておられます。

 しるしとは、人が判断して、救い主であると、お墨付きを与えるものです。そのような、私ども人の側に判断の基盤を置いた仕方では、決して、信仰を持つことができない、イエスがキリストであるとはわからないのです。

 確かに主イエスは、いわゆる奇跡を行っておられます。御言葉とそれに伴う神のわざをなしていかれました。しかし、それは、救い主である証拠として行われたのではないのです。だから、奇跡を積極的に宣べ伝えることを禁じられました。

 もちろん主イエスは、病の中に苦しむ者を憐れまれました。決してそれをどうでもいいこととして通り過ごされたのではない。その痛みに寄り添われたのです。しかし同時に、そこに留まられたのではないのです。主イエス御自身の道は、悪霊を追い出し、病を癒すことが終着駅ではなかった。主イエスは、私どもの道が神に通じるためにお生まれになりました。すなわち、罪を赦されて神のものとされて生きるために、進み行かれたのです。それは、十字架のお苦しみと死からのよみがえり、復活の道です。


 さて弟子達は、先ほど申しましたように、主イエスから、その心の頑なさを「まだ悟らないのか」と戒められています。自分たちの視野の中でしか、主イエスを見ることができなかった。主イエスとの経験は、彼らの経験となっていないのです。身に付いていない、その心の習慣は依然として変わっていない。自分たちが、神を知ることにおいて、いかに鈍感であることに気が付いていないのです。悟りを与えられる必要を感じていないということです。


 私どもは、注意しないと、自分で身勝手に悟ってしまっているときに、主イエスとは無関係なところに生きることがあるのです。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15)と主イエスは忠告されます。パン種は、ごくわずかでその粉全体をふくらませるものです。ここに警告がなされています。

 ファリサイ派の人々は、自分たちは、神のことが分かっていると思い込んでいました。救い主をも自分で判断しうると、考えていたのです。自分たちに何か不足や欠けたところを見出して、悔い改めて祈ることは、もはやなかったのでしょうか。そうだとすれば、神への真実な祈りは失われているのです。ある意味、自覚しないところで、非常に高ぶっている、傲慢に陥っていることになるのです。

 一方、ヘロデのパン種とは、現実主義者のことを指すと言われます。人生は、空しく、神の救いなどないと悟ってしまう。そこから生まれるものは、快楽に身をゆだねて生きるということがあるでしょう。あるいは逆に、現実の生活が思い通りにならないと、生きることに絶望してしまうこともあるのではと思います。

 今日の礼拝は、子ども祝福の礼拝でもあります。主イエスは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(マタイ19:14)と言われました。

 もうずいぶん前のことですが、かつて娘が幼稚園に通っていたとき、キリスト教幼稚園の機関誌を持って帰ってきました。そこに、私が子どものときにアニメで見た、アルプスの少女ハイジのことが書かれていたのです。アニメには描かれていなかった、原作にある、ハイジのおじいさんのことが中心に書かれていました。ハイジのおじいさんは、不幸なことが重なって「もう取り返しがつかない」と世捨て人のように生活していたのですが、ある日、ハイジが聖書の放蕩息子の話をしてあげるのです。その話は、ハイジがフランクフルトのお屋敷で、クララといっしょに生活していたときに、クララのおばあさんから教えてもらった聖書の有名な物語です。「取り返しがつかないなんてことはないの」とハイジは語って、神様は、赦して受け入れてくださるという、たとえ話をしたのです。ハイジの話に耳を傾けたおじいさんは、その夜、ハイジの寝顔を見ながら、物語の放蕩息子がしたように「父よ、わたしは天に背き、あなたにも罪をおかして、もはや、あなたの息子と呼ばれるにあたいしません」と悔い改めの祈りをします。おじいさんの目から涙があふれました。そして次の朝、ハイジにいっしょに教会の礼拝に行こうと呼びかけるのです。年をとってからの新しい生活が始まっていったのです。


 私どもは、自分の悟りに頼ってはならないのです。自分はもはや悟りきったと思い込んで傲慢になることは、子どものように神の国を受け入れることから、遠く離れるのです。

 そうではなく、マルコが記す、主イエスの弟子たちのように、たえず神様から与えられる悟りに生きるべきであります。与えられるからといって、何もしないわけではないのです。むしろ、「まだ、悟らないのか」と、戒めてくださる主イエスに導かれて、信仰において無知な自分に気づかされ続けるのです。

 私どもが、たとえ無理解で不信仰であっても、主は礼拝において照らし出してくださって、信仰へと導いてくださるのです。主イエスのパン種である御言葉の語りかけによって、主イエスは私どもに働きかけてくださいます。主イエスの御言葉のパン種はこれからも、私どもの存在を、教会を救いの喜びと感謝でふくらませてくださるのです。



 

閲覧数:28回

最新記事

すべて表示

Commentaires


bottom of page