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2021年10月3日(日)聖日礼拝(世界聖餐日、世界宣教の日)

【聖霊降臨節第20主日】


礼拝説教「礼拝の祝福」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 6:30-44


<讃美歌>

(21)26,14,129,198,65-1,27


 マルコによる福音書には、さまざまな、いわゆる奇跡と呼ぶべき、主イエスがなされたことが記されています。今日の箇所も、奇跡物語の一つですが、福音書全体からすると、主イエスはいわゆる奇跡をなさることにとどまり続けることを避けて行かれたのです。十字架が近づくにつれて、だんだん奇跡をなさるのではなく、弟子たちに御言葉を語られることに集中して行かれた。その歩みの中に、今日の箇所もあることを受けとめながら、思いを深めていきましょう。

 なぜ、主イエスは奇跡をなさり続けられなかったのか。それは、病のいやしのような奇跡そのものの中には、救いがないからです。もちろん、病に苦しむ者たちを心から憐れんでくださいました。5章には、12年間も病で苦しみぬいた女性を、主がいやされたことが記されています。しかし彼女もやがては、自らの地上での生涯の終わりを迎えたのです。あるいは、死んでいたのに、主イエスによって生き返らせてもらった少女も、その生涯を全うするときがきました。そのような奇跡は、大きな助けと慰めになったことは確かです。しかし、主イエスはそのような奇跡で人を救おうとはされなかった。人の病を癒し続けることはなさらなかった。病のいやしのような奇跡そのものの中には、救いはないということです。

 主イエスは、私どもに、主イエスを救い主と信じる信仰を与えて救おうとなさるのです。私どもに、主イエスを信じる信仰が与えられるということこそ、人にはできない奇跡であります。ひとつの御言葉を思い起こします。

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネ1:5)という聖書の言葉です。

 新共同訳では、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:5)となっています。元々の言葉を調べますと、「理解しなかった」とも「勝たなかった」とも訳せる言葉であります。しかし、「やみはこれに勝たなかった。」という言葉が、ふさわしいと思っています。「やみ」というのが、人を捕らえる悪しき者、罪の縄目と理解するからです。やみから光へと、神の力によって移されるとき、やみは光と変えられるのです。救われて光の支配のもとに、生かされる。もはや、やみの力も及ばないということです。

 しかし、「理解しなかった」という訳も、十分に理解できる言葉です。「理解しなかった」とは、ある神学者は「暗闇は光を受け入れなかった」と訳しています。「受け入れなかった」というのは、私ども人をそこに含めて言っているのです。


 いずれにしても、「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」という御言葉を思いめぐらしながら、不思議に、主イエスが祝福で照らし出してくださる、礼拝の恵みを言い表している御言葉として響いてきました。

 礼拝は、主が闇に輝く光として、御言葉によって私どもを照らし出してくださる時であります。いかなるものも、その恵みを退けることはできないのです。

 今日の礼拝は、世界聖餐日です。しかし聖餐を礼拝で祝うことは、長老会で、感染症対策として控えることにしました。苦渋の決断であります。ただ、このようにも思います。それは、世界は感染症のため、災害時と言うべき苦難の中にあります。いま世界で多くの痛みの中にある方たちを、主と共に心におぼえる助けをいただいくからです。また私どもが、礼拝において、聖餐を祝いたくてもできないことは、決して不十分な礼拝ではないということです。礼拝の恵み、祝福を教えられるよい機会となります。日頃の、聖餐のない礼拝は、聖餐のある礼拝よりも劣るのかといえば決してそうではない。もちろん、聖餐によって与えられる主の恵みがありますが、聖餐がないときも、主の御言葉によって同じ礼拝の恵み、主の祝福が与えられている。私どもに御言葉によって信仰を与えてくださることは、主のなさる尊いお働き、奇跡であるのです。

 また今日は、世界宣教の日でもあります。阿佐ヶ谷教会の副牧師であった江原有輝子先生が、パラグアイに宣教師として遣わされています。パラグアイでは、日本や先進国のようにワクチンが行き届いていないようです。日本に帰国なさって報告の時をと願っておられますが、もしそうなさると、パラグアイに長い期間戻れないかもしれないので、ここ1年以上現地にとどまり続けておられる。礼拝の恵みを届け続けて、主の祝福、御言葉の輝きを届けておられるのです。


 さて、とても有名な、「五つのパンと二匹の魚の奇跡」が記されています。主イエスが、祝福されると、わずかな「五つのパンと二匹の魚」で、男だけでも5千人を数えたおびただしい人々が、満腹したというのです。まさに、主イエスの祝福に照らされたと言うべき、奇跡を伝えています。

 マルコによる福音書は、4つの福音書の中で、一番最初に書かれたと言われていますが、4つの福音書は共通して、主イエスの十字架の死と復活を記しています。それが私どもの救いだからです。

 しかし、主イエスの十字架と復活以外の、いわゆる奇跡の中で、実は、4つの福音書すべてが記しているのは、ひとつだけなのです。それが今日の箇所です。それだけ大切で、どうしても、記す必要があったというのです。マルコやマタイは、丁寧に、もう一つの同じようなパンの奇跡を記しています。マルコでは、8章に記されています。

 

 いずれにしても、このパンと魚の奇跡は、福音書を記した時代の教会以来とても大切にされてきました。キリスト教会の物語として、私どもの物語として、愛されてきたのです。しかし、このマルコによる福音書が、何を明らかにしようとしたかを聞き取る必要があります。神の語りかけを確かに聞く必要があるのです。ともすれば、このパンと魚の物語は、わずかなパンと魚が、おびただしい人々を満足させたことだけに注目されます。あるいは、なぜ、そのようなことが起こったのか、この物語の元々には、どういうことがあったのか、学者達は考えるのです。

 ある人は、こう考えます。実は、人々は、それぞれ自分の弁当ぐらいは持ってきている人が多かった。しかし、うっかり広げると、持ってきてなさそうに見える隣の人に分けてやらなくてはならない。それはわずらわしい。そろそろお腹もすいたし、どうしようか。そんなことを考えていると、イエスと弟子達が、ほんのわずかなものを神に感謝して分け合っている。それに、心を打たれた多くの人々が次々と、わたしもわたしもと持ってる自分の弁当を分け合い、結果、人々はすっかり満腹はしないまでも、心は満たされて帰っていった、ということです。

 しかし、実際に起こったことがそのようなことなら、そういうことがあったのか、で終わったはずです。ここまで、どの福音書記者も大切にして、ある意味で、自分たちの存在をかけて記すことはなかった。ここに、自分たちの信仰を映し出すことはなかったのです。

 では、マルコは、どのように自分たちの信仰をここに映し出しているのでしょうか。そのことを理解するには、マルコによる福音書全体から見る必要があります。この箇所だけではわからないということです。

 先ほど、8章にも同じような出来事が記されていると言いましたが、8章までいかないとある意味で明らかにならないところがあります。今日の箇所に続く52節には「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」とあります。そのことは、2度目の奇跡でも変わらない。同じようなパンの奇跡の後、主イエスは、弟子達を、「まだ、分からないのか。悟らないのか。」(8:17)と戒めておられるのです。

 ここに、弟子達の理解のなさが明らかにされているということです。あれほどの奇跡を目の当たりにしながら、依然として、弟子達は、イエスが誰であるかをはっきりと知ることができなかった。自分の力で悟ることができず、信仰を抱くことができなかった。主イエスが十字架におかかりになったとき、弟子達は、主イエスを捨てて逃げてしまった。復活の主に出会ってもなお、十分ではなかった。ペンテコステにおいて、神の霊、聖霊が与えられてはじめて、主イエスをはっきりと悟ることができた。そこに、キリスト教会が生み出されたのです。

 ですから、弟子達は、このパンと魚の物語を思い起こすたびに、自分たちの理解のなさ、元々信仰がなく、主イエスを救い主として信じる信仰を生み出せないものであることを自覚したのです。

 しかし、ここで主イエスがなされたみわざは、決してどうでもいいことではない。してもしなくてもよかったというものではない。この奇跡は、不思議なことに、他のものに比べて、全く誰からも要求されていないのに、主イエス自らなさっているのです。ここに御自身をどうしてもあらわす必要があったということでしょう。

 それは、ヨハネ福音書6章35節にありますように、「わたしが命のパンである。」と語られる、主イエスがここに明らかにされているということです。命のパンである主イエスを、弟子達は、ここに見ているのです。

 主イエスが祝福されるときに、もてる乏しさは、命を分け合う豊かさへと変えられる。「五つのパンと二匹の魚」のような自らの乏しさを主イエスにゆだねるときに、まさにその乏しさにおいて、私どもは、主イエスの豊かさを経験する。そのような希望が与えられているのです。それは、確かな希望としてここに記されているのであります。

 なぜ確かな希望ということができるのか。それは、このみわざは、主イエスの憐れみから出ているからです。主イエスが人々を見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(34)、その憐れみの中でなされているからです。主イエスは、弟子たちを憐れまれたように、私どもを憐れんでくださるのです。

 主イエスの憐れみは、神の憐れみです。憐れみというのは、神の深くまた激しいほどに強い愛をあらわす言葉です。いつも心に刻みつけておくべき言葉です。

 神の憐れみというのは、元々は、内臓が痛むような思いです。さらに言うなら、はらわたが引き裂かれるような痛みをもって思う愛です。それほどの愛をもって、主イエスは人々を見ておられる。私どもを御心にとめて、憐れんでくださっているのです。

 憐れみ深い神、主イエスが、御自身の祝福で私どもを照らし出してくださるのです。主の祝福の光のもとに、この身をゆだねていきたいと願います。礼拝の祝福が地域に、世界に広がっていくように祈りつとめていきましょう。



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