【降誕前第8主日】(宗教改革記念日)
礼拝説教「神様が顧みる人」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 7:24-30
<讃美歌>
(21)26,127,434,454,65-1,27
今日は宗教改革記念日で、宗教改革に関わった中心人物であるマルチン・ルターの有名な祈りを思い起こしました。ルターに与えられた祈りに私どもも倣って祈りたい。ある神学者の訳によりますが、こういう祈りです。
「愛する父なる神よ、私はもとより知らないのです。私自身がこれからどうなっていくのかを。いつどこに休息を見出すことができるかを。しかし、私は、それでも信じる者がなすべきことをしたいと、これまで努力して来ました。だから、もう一度しっかりとみ言葉によりすがりたいと思います。あなたは、かつて私を助けてくださいました。しかし、その時も、私はそれに気が付きませんでした。よくわからなかったのです。今度もまたきっとあなたはそのようにして、助けてくださることでしょう。」
ルターは、自分の経験として、神の助けを、振り返って気が付いたと告白しているのです。その時には、気が付かない。神が働いて助けてくださっているにもかかわらず、それには気が付かないことがある。後になって、はじめて気が付くというのです。なぜでしょうか。それは、ひとつには、私どもが気付かないほどに、私どもの思いや祈りをこえて、主なる神は大いなるお方であるということです。神の助けのすべてを知ることはできないのです。あるいはまた、神が働いてくださることに気付かないのは、それほどに私どもは、心が鈍い者であるからです。
旧約聖書に、鉄がさび付いたときに、その鉄を指して、鉄が鈍くなるという表現があります。心をさび付かせ、私どもの心を鈍くさせるものは何でしょうか。あるいは、耳が鈍くなるという言葉もあります。それは、明らかに、神の言葉を聞くのに耳が鈍いのです。耳が重いとも訳せます。耳が遠くて聞こえにくいと言うのではない。耳が遠くなって、音としては、説教を聞きづらくなっている年配者が、実は聞くべき神の語りかけは漏らしていないということがあるのです。逆に、音としては、すべて聞いているのだけれども、自分に語られている神の語りかけを聞いていないということがある。それは耳が鈍い、心が鈍くなっているということです。
そのように、私どもの心を鈍くさせるもの、それは、私どもの心から出てくるものであります。罪深さであります。今日の箇所の直前には、主イエスが、人の心の中から、悪い思いが出てくる、と語られています。その中に、傲慢という罪が語られている。口語訳では、高慢と訳されていました。高ぶりということです。
心をかたくなにし、高慢になることを、聖書で首筋が固くなる、うなじが固くなる、という意味の言葉で語ることがあります。頭を垂れて、人に頭を下げるときには、首筋をつっぱていては、頭が下げられない。私事ですが、子どもたちが小さい頃、おかしくなることがありました。ごめんなさいが言えないときに、頭を少し押して下げさせようとすると、首筋をつっぱって、まさにうなじを固くしたのです。思い返しながら、心をかたくなにしてしまう、自分のことを考えます。
私どもは人に対して、もはや根に持っていないつもり、赦しているつもりで、実は、自分では乗り越えられないで、もがくことがあります。主イエスが与えてくださった主の祈りに「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」とありますが、主よ、憐れんでください、と祈らざるを得ないのであります。この祈りは、赦せるようになったら祈るのではなく、赦せない心があるからこそ、「我らが赦すごとく」と祈るのです。
自分がどんなに赦されているかを忘れて、いや十分に分からずに、心が高慢になり、自ら高ぶりを生み出していると、苦しむのであります。そこからいつも助け出されるために、
「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈る恵みが与えられているのです。主の祈りによって、主よ、お赦しください、あなたに赦されたように赦します、赦すことができますように助けてください、と祈っていきたい。
今日与えられています箇所には、高ぶりではなく、その反対のへりくだりに生きたひとりの女性の物語が記されています。対照的な箇所で、へりくだる喜びを見出したひとりの女性のことが記されているのです。彼女が与えられた喜びに、私どもも生かされたいと願います。
この女性は、ギリシャ人で、旧約聖書に記されている、はじめに選ばれた神の民ではないのです。異邦人と呼ばれたりします。しかし、自らを、神の民の正当な継承者と自負していたファリサイ派の律法学者たちと比べるなら、実に見事に、主イエスの前に、へりくだっているのであります。
彼女は、ひとりの母で、娘がどうしようもない苦しみの中に置かれていました。どういう症状かは分かりません。汚れた霊にとりつかれ、誰も助けることができない。ある意味で、母親以外のすべての者は、見離していたのかもしれません。
母は必死で主イエスのもとを訪ねました。「その足もとにひれ伏した」とあります。ある神学者は、彼女は、ひれ伏したまま、顔を上げずに、願いを主イエスに申し上げたのではないかと、言います。そうではないか。娘を助けてください。悪霊を追い出してください、と願い出たのです。
ひれ伏す母に対して、主イエスは、こう答えられます。
「まず、子供たちに十分に食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27)
先ほどマルチン・ルターの祈りを伝えましたが、ルターが説教のなかで、主イエスから、「子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と語られた女性について、「この主イエスの言葉によって、彼女の心も肉体も、粉々に砕けた」と語っています。
彼女は、主イエスの言葉によって、全く砕かれたということです。人が生み出す最高のへりくだりと謙遜をもって、彼女は、主イエスの前にひれ伏したでしょう。しかし、神は、なおも彼女を砕き、神が与えるへりくだりに生かしたということではないでしょうか。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑(くず)はいただきます。」(28)
彼女は、主イエスから与えられる恵みの中で、答えることができました。心砕かれた思いを与えられたということです。もともと自分には、神の助けを与えられる資格はないけれども、どうか憐れんでください、と願うことができたのです。
弟子たちの誰もまだ、イエスを主よ、と呼ぶことができていないその時に、この女性は、イエスを主と告白できている。信仰を与えられたということです。
主イエスは、彼女を見て、「よろしい」(29)と言われました。よしとされたのです。
このように考える人もいるかもしれません。母親は必死なので、主イエスからダメと言われても、食い下がって「食卓の下の小犬も、子供のパン屑(くず)はいただきます」と言ったのではないか。しかしイエスから良いものを得るために、口先で、謙遜ぶったのではないのです。そんなうすっぺらなへりくだりは主イエスの前では通用しない。神は見抜くことができるのです。「よろしい」とは言われないのです。やはり彼女は主イエスの御言葉によって、心を砕かれていったのであります。
イザヤ書57章15節を思い起こします。
「わたしは、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。」
イザヤ書に記されている「打ち砕かれた心の人」とは、主イエスに砕かれたひとりの女性のような人のことであります。主イエスは私どもを「打ち砕かれた心の人」となして、ご自身の聖なる命を得させようと招いておられるのです。
さらに、へりくだることを思い巡らす時に、ミカ書の言葉を思い起こします。
「人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)
「へりくだって神と共に歩むこと、これである。」とありますが、私どもがへりくだったら、そこまで神が降りてきてくださるというのではないのです。へりくだる中で、すでに共におられる神が見えてくるということです。気が付かなかった、共に生きてくださっている神に出会い、共に歩む者となるということです。
「へりくだって神と共に歩むこと、これである。」この御言葉と主イエスの生涯が重なる思いがします。あのベツレヘムの飼い葉桶に寝かせられ、私どもよりもはるかにへりくだり、謙遜そのものとして生きられた主イエスの生涯を思い起こします。まさに私どもに代わって、「へりくだって神と共に歩むこと」が何であるかを見せてくださったのが、主イエス・キリストであります。その主イエスの後に従うということは、謙遜を学ばずには生きられないのであります。
もともと自然に高ぶりを生み出す私どもが、神から与えられるへりくだりに生きるというのは、心砕かれることであります。「打ち砕かれた心の人」となるのは、ときにはつらいことでもあります。しかし、そこにこそ、共に生きてくださる主なる神に出会うことができる喜びがあるのです。
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