【降誕前第9主日】
礼拝説教「清められる喜び」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 7:14-23
<讃美歌>
(21)26,54,205,481,65-1,27
新しい年度も10月に入り、守られて後半を過ごしています。主に感謝しつつ思い巡らしていた時に、ひとつの聖句を思い起こしました。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」(イザヤ43:19)その前の18節には「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。」とあります。
私どもは、自分達の経験の中で、神の言葉を聞こうとします。しかし、「昔のことを思いめぐらすな。」と言われるのです。今までの教会の歩みや経験を無視することではありません。そうではなくて、これからの歩みを考える時に、主なる神にのみ希望を置いて、私どもの経験や力に頼ることをしないように、ということです。
私どもは、これまでの経験の連続で生きていきたいと願っていることがあるのではないでしょうか。気づかないところで自分をしっかり握りしめながら、神の言葉を聞こうとするのです。私も、神にゆだねきれないで、不信仰を告白して祈ることがあります。しかし、そのような者であったとしても、すでに神の新しい働きは、先をいっている。芽生えている。私どもが、十分な信仰を抱いたら、新しいことを芽生えさせてくださるのではないのです。旧約の民に対してそうであったように、憐れみ深い神は、罪深く、不信仰な私どものただ中に、みわざをはじめられるのです。いかなるときにも、神が憐れみをもって働きかけてくださることを、御言葉によって教えられていくことは、とても大切なことです。御言葉によって私どもの姿と向き合うことは、なお一層、主なる神の憐れみの深さを知ることになるのです。
先ほど、憐れみ深い神は、罪深く、不信仰な私どものただ中に、みわざをはじめられると申しました。主イエスは、私どものことをすべてご存知であって、厳しくも愛をもって語りかけてくださいます。
「外から人の体に入るもので人を汚(けが)すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚(けが)すのである。」(マルコ7:15)
汚(けが)れというのは、衛生面のことではないのです。よごれているというのではない。それは、神との関係を持つことができないものということです。当時のユダヤ人たちは、汚(けが)れを日常生活の中で、神を信じていない人々から受けると思っていた。しかし、主イエスは、そのような表面的なことを退けておられるのです。
主イエスは、洗えば流せる汚(けが)れではなく、自らの内にある汚(けが)れを見据えるように教えておられます。人の中からでてくるものが人を汚(けが)すことを見据えて、そこからスタートするように教えておられる。そこから、きよさを求めて祈るように、礼拝において求めておられるのです。自分と向き合うようにということです。神の赦しのもとに自分と向き合うのです。自分をさばきながら向き合ってはならないということです。
ルターは、キリスト者のことを、「赦された罪人」と呼びました。赦されるというのは、義とされるということです。
聖書は、義とされる、ということを、神に罪を赦されて受け入れられ、神との正しい関係に置かれる、という意味で用いています。それは、自らの中で暴れる、暴君ともいうべき、罪から解放されていくということでもあります。罪の古いからだは、キリストと共に、十字架に死んだということです。そして、キリストの復活の新しい命に生かされているのです。
そうであるなら、ルターは、赦された罪人ではなくて、赦された聖徒と呼べばよかったのではないか、ということになります。実際、キリスト者は、新約聖書では、聖徒と呼ばれています。
ですから私どもは、聖書が語るところによれば、赦された聖徒にして赦された罪人であります。赦され、新しくされているけれども、生涯、自らの罪と取り組み、それを赦され、そこからきよめられることを通して、神を知ることを与えられている。ルターは、そこに強調点を置きたかった。キリスト者が成長して、ふさわしく聖霊の実を結んでいくことを聖化と呼びます。ルターは、キリスト者の聖化を大切にするがゆえに、生涯、自らの罪と取り組み、それを赦され、そこからきよめられることを通して、神を知り続けることをキリスト者の歩みとした。だからこそ、赦された罪人、と呼んだのであります。
きよめられるというのは、罪から離れることでもあります。罪から解放される。そのような自らを喜ぶと共に、すでに赦して導いてくださる主イエスをさらに知るのです。赦された罪人として、汚(けが)れをきよめていただく必要のある者として、生涯、神を見上げ礼拝して生きる幸いにあずかっている。キリスト者は、罪の支配から、神の恵みの支配にうつされているのです。
7:20-23に「人間の心から、悪い思いが出てくる」と記されて、さまざまな悪い思いが列挙されています。説明の必要はないことがらです。その中でひとつだけ取り上げたいのですが、主イエスは、私どもの心から出てくるものとして、「ねたみ」を語っておられます。ねたみは、人と自分を比較してうらやむことですね。どうしても、私どもにはそういう心があるでしょう。人をうらやんで、決して満足していないのですから、それは罪の本質を表した姿であるかもしれません。同じものを与えられていても、ねたみに支配されれば、どうして自分はこうなのだと人をうらやむ思いで心は満たされない。逆に、神の恵みによって神に近づけられるときに、人は、自分のような者にはもったいない、という思いで満足することを学び、神に感謝をささげて喜ぶことができるのです。主イエスはここで、私どもの心から出てくるものを明らかにして照らし出すと共に、私どもを神に近づけようとしておられるのです。
私事ですが、母が、ある日、自らの弟のこと、私のおじさんのことを話してくれました。おじさんは、ある意味で放蕩息子でありまして、母たちは少なからず苦しんだ。しかし、母は、やがて弟もキリスト者となって、平和な家庭を築くようになったとき、おじさんのことを、あの弟がいたから、自分は神に近づけられたのだという意味のことを話してくれたのであります。
主の御言葉に照らされて、自分の罪と向き合うことは、つらいものであります。しかし、自分でも認めたくない、自らの姿に向き合うときに、そこでこそ、私どもは、主イエスの十字架の救いの大きさを知っていく。知り続けていくのであります。
教会は実際、赦された罪人の集まりであります。うまくいかないことがあっても不思議ではない。しかし、そのひとつひとつを通して、神に近づけられている。私自身、つぶやく自分が恥ずかしくなることがあります。自分もまた赦された罪人であることに、はたと気がつくことがいったい何度あったでしょうか。私どもは、神に近づけられているのです。
どうか覚えていただきたい。長老のつとめは、霊的なものであります。そこには、いろいろな問題や課題が見えてくることがしばしばであります。しかし、どうしてなのかと、首を傾げるその時に、そこにおいてこそ、神に近づけられていることをご一緒におぼえたいのです。互いを照らしてくださっている神のもとにへりくだるべきだということです。与えられた恵みの時、悔い改めの時であるということです。そのような積み重ねが、教会の交わりに慰めを与える。いやしを生み出すのであります。
先ほど、もはや洗礼を授けていただき、神に救われた者は、罪や汚(けが)れの支配のもとにはいない、と言いました。それは、言い換えるなら、神のものとされているということです。キリスト者のことを、きよめられた者、と呼ぶことができますが、それは、ひとつには、罪の支配から解放された者であります。罪という暴君の支配から神の恵みの支配に移されたということです。きよめられた、という言葉には、神のものとされたという意味があります。ですから、キリスト者は、主イエスの十字架と復活の救いによって罪赦されてきよめられた者であり、救いの恵みによって神のものとされた者ということです。
ブルームハルトの有名な祈りを思い起こします。その祈りを私どもの教会の祈りとして、これからの歩みを主なる神に委ねたい。
「主よ、われらの神よ、天地におけるわれらの父よ、われらは感謝します。あなたはひと つの民をご自分のものとし、おまえはわたしのものだ!と言われます。われらをそのみ民に加えてください。常に信仰においてわれらを強め、われらがあなたのものとなり、あなたの支配とあなたの支配の義をも経験しうるようにしてください。すべてのわれらの道にあって、われらを守ってください。地上におけるいかなる時にも守ってください。さまざまの悪い時があります。しかし何が起ころうとわれらはひとりびとり心に確信を持っています。われらはあなたのものである!と。すでに長い間あなたはわれらを守り、防いできてくださいました。われらは常に言います。これはわれらの信仰告白です。主よ、われらの神よ、われらの救い主イエス・キリストによって、われらはあなたのものなのです!
アーメン 」
私どもが神のものであるようにとの願いを神に祈る祈りであり、同時に、私どもが神のものであることを神に感謝している祈りです。
私どもは絶えず、主なる神に、あなたのものとしてください、と祈り続けたい。と同時に、主よ、私どもがあなたのものであることを感謝します、と感謝の祈りをささげ続けたいのであります。そのような神の救いの恵みのもとに支配され、しっかりと守られているのであります。私どもを神のものとして救ってくださることこそ、新しいことであって、主なる神にしかできない喜びの出来事です。主の喜びの出来事に、すべての方を招こうと主が働いておられ、私どもを用いてくださることを信じて共に生きていきましょう。
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