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shirasagichurch

2021年10月17日(日)聖日礼拝

【聖霊降臨節第22主日】


礼拝説教「心底から敬う」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 7:1-13


<讃美歌>

(21)26,227,120,396,65-1,27


 誰かに指摘したり、忠告することは、勇気がいることです。正しさだけでは相手に届かないことがありますし、自分が思っている正しさ自体が、果たしてどうなのか、反省すべきときもあります。

 聖書を読んでいますと、主イエスは、ときに厳しいことをお語りになっています。神様だから、正しいことをご存知で語っておられると言うことができます。しかし、主イエスはいつも、神の愛をもって語ってくださるのです。神の義は、神の正しさですが、冷たい正しさではなくて、愛のこもった正しさ、神の義であるのです。ですから、神の義は、神の愛と言い換えてもいいぐらいに、愛のこもった正しさであるのです。主イエスは本当に私どものことを心にかけてくださっているからこそ、耳の痛いことも語りかけてくださるのです。

 この箇所には、主イエスから、偽善者として厳しく戒められている人々がいます。彼らは、同時のユダヤ社会の指導者でありまして、ファリサイ派の人々と律法学者たちでありました。社会的な伝統と正しさを維持していた人々と言えるかもしれません。しかし決して、私どもと関係のない話ではない。むしろ、大いに耳を傾けるべきところであります。なぜなら、罪深さの中心には、自らを正しいとして相手を認めない、ファリサイ派のような、律法学者的な罪があるからです。


 さて偽善者という言葉の語源は、ローマ時代の舞台演劇で、役者がつけていた仮面から取られた言葉だと言われます。演じているということです。自分を生きているのではなくて、自分を演じて生きているということです。

 ここで直接、非難されているのは、ファリサイ派の人々と数人の律法学者です。当時の宗教的指導者と言うべきでしょう。彼らは、エルサレムから来た、調査団のような者たちです。

 その調査の中で、浮かび上がった、見捨てておけないことがあった。それは、「汚(けが)れた手、つまり洗わない手で食事をする」イエスの弟子達がいることです。彼らは主イエスに問いかけた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚(けが)れた手で食事をするのですか。」(5)

 汚(けが)れた手というのは、どういう意味でしょうか。それは、衛生上の問題ではないことをお話しする必要があります。私どもは、コロナの厳しい状況で、手指消毒がすっかり習慣になったのではないでしょうか。風邪の予防でも、よく言われるのが、手を洗うということです。手から感染することも言われます。しかしここでは、そのことではないのです。

 「汚(けが)れた」という言葉は、「日常の」とも訳せます。「日常の手」ということです。不思議に思われるかもしれませんが、「日常の手」というのはどういうことでしょうか。神の言葉ではなくて、昔の人々の言い伝えに生きる人々は、日常生活の中で、周りの人々から、さまざまな汚(けが)れを受ける、と思い込んでいた。周りの、神を信じない汚(けが)れた人々から、さまざまな汚(けが)れを受ける。ですから、その日常の手、汚(けが)れた手を清めてからでなければ、安心して食事ができないと考えたのです。それは全く無意味な思い込みですが、その思いにとらわれていた。実際には、人から受けない汚(けが)れをあるかのように思っていたのです。


 以前牧会していた教会でのことです。あるとき、庭の柿を収穫して、ていねいに渋抜きをしました。子どもたちと食べるととてもおいしかった。ただ、2回目に収穫してもう一度渋抜きをする前に、どれぐらい渋いのか、食べてみようと思って食べてみました。それが、不思議なことに甘くておいしい。どういうことかというと、渋柿でないのに、渋柿と思い込んで、わざわざ渋抜きまでして喜んでいたということです。

 渋柿のことは、それが甘柿と分かればすぐに食べるようになります。しかし汚(けが)れのように、目に見えないことは、人はなかなか心を入れ替えて、考えを改めることができないことがあります。汚(けが)れを人から受けないのに、相手が汚(けが)れていると思い込んでしまう。相手が汚(けが)れていると思う、その人自身の心に、神様から見ると、汚(けが)れがある。心が罪に汚(けが)れているということです。罪でよごれていると考えてもいい。

 私どもは、自分で自分の心をきれいにすることは難しいのではないでしょうか。多少なりとも、そのことの難しさを知って、御言葉に照らされて自分を教えられていく必要があります。そうでないと、きれいになったつもりで、いつも自分を正しいところに置いて、他人を非難していることがあるのです。ある牧師は、ファリサイ人根性と言われる。そのような私どもを主イエスは憐れんで、心をきれいにしてくださる。それは、いろんな間違った狭い考え、偏見からも自由にしてくださるということです。

 

 青森にいた頃、国立ハンセン病療養所の松丘保養園に、月に二回、主日の朝8時半から礼拝説教のつとめを与えられて、キリスト教会の松丘聖生会の方たちと礼拝をささげていました。その教会員のある方から伺ったのですが、昔、保養園には、しきりがあったそうです。ハンセン病菌の無毒地帯とそうでないところのしきりがあったというのです。明るくお話になったのですが、その言葉の重みを多少知っている者にとっては、心に痛みを感じることがらです。

 ハンセン病菌というのは、昔は、不治の病として恐れられたのですが、その病原菌は、実は、風邪の菌よりも感染力の弱い、ばい菌の一種の菌だと分かった。伝染病では全くないということです。しかし、一度すり込まれた、人々の言い伝えは、容易には、変えられなかったのです。

 

 主イエスは、人の言い伝えに生きることを厳しく戒めておられます。いくつか拾い読んでいきますと、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8)「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。」(9)「ないがしろにする」というのは、通用させなくする、ということです。紙幣の価値がなくなって、通用しなくなったら、紙切れです。

 あるいは、おもちゃのお金がありますが、ままごとの中だけで通用するおもちゃのお金のように、主イエスの教えをあつかってはならない。自分の生活の中で、主イエスの教えを通用させないで、礼拝堂の中だけで通用させているとしたら、それは、「神の掟をないがしろにした」ことになるのです。

 神の掟を通用させない、という具体例として、「父と母を敬え」という、十戒の教えを取り上げておられます。


 「父と母を敬え」という教えを、キリスト教会はとても大切にしてきました。私どもひとりひとりが、それぞれ育てられてきた子どもとして聞くべき教えです。しかし、子どもに向かってだけ、語られているのではないのです。

 この教えの背景には、父と母が、神の教えを子どもたちに語って聞かせる最初の存在であるから、「父と母を敬え」と命じられていることがあります。ですから、神を信じて敬うということと、父と母を敬うということがひとつであります。ここまで言いますと、お気づきでしょう。これは、子どもに対して語られていると同時に、まず、父母に対して、あるいは、年輩者に対して、正しく、神の掟を教える存在として語られている。自分を振り返らずに、子どもや若者に対して、「父と母を敬え」とは言えないのです。厳しくもまたすばらしい神の教え、聞き従うべき神の掟であります。

 たとえ、正しく、教えてくれなかった父母であっても、ののしったり、呪ってはならないのであります。それは、神の祝福から離れるからです。たとえどんな親であっても、恨むことから神の恵みによって解放され、祈りゆだねるのであります。主イエスが、私どもを守って心を新しくしてくださるのです。

 

 来月の11月14日には、子ども祝福の礼拝をささげます。その日の礼拝で、子どもたちのことをおぼえて牧師が祝福の祈りを献げます。教会として、教会の仲間や地域の子どもたちのことを祈り続けることは大切なことです。

 あるいは、次週から、教会の暦では降誕前第9主日となります。クリスマスを待ち望む季節がはじまります。


 ある説教者は、このように語っています。

「ある意味で、イエス・キリストという方は、あのクリスマスの晩、まぶねの中に置かれた赤ん坊のまま、大人になった方であったと言えるかもしれません。その生涯にわたって、赤ん坊のもつ力を失うことなく、神の恵みを指し示し、語りつづけた方こそ、イエス様だったのではないかと思うのです。」

 私どもは、すべて赤ちゃんでした。その生まれ出たとき、父母の思いをはるかに超えて、神の憐れみ深いまなざしがあったのです。親の思いと共に、それをはるかに超えて、その存在を喜ぶ神の御心の中に置かれていた、ということです。その憐れみ深い神の愛は、今も変わらないのであります。私どものことを喜んで養ってくださっているのです。主イエスが私どもを守って、心を新しくしてくださるのは、私どもの心を主イエスの心とつながるようにしてくださるからです。主イエスの心は、偏見や罪のない、神の愛、愛にあふれた神の義そのものと言うべき心です。


 私どもの心が、主の愛の心とつながることは、礼拝の恵みです。私どもにはとてももったいないことですし、主の赦しと憐れみがなければ実現しないことです。礼拝において、主の御言葉を聞いて心を照らされ、その御言葉に生きることができるように悔い改め、信頼して祈ることは、主の心とつながり続けていることであります。

 どうか礼拝において、主イエスの心とつながる恵みに、これからも生きていきましょう。




  

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