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2021年10月10日(日)聖日礼拝(白鷺教会創立記念日礼拝・神学校日)

【聖霊降臨節第21主日】


礼拝説教「心が静まる」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 6:45-56


<讃美歌>

(21)26,6,218,351,65-1,27


 与えられている箇所には、逆風の中、ガリラヤ湖で舟を前に進めることができず、あえいでいる弟子達の姿が記されています。弟子達は、その舟に主イエスがおられないで、自分たちだけで漕いでいます。少なくとも、主イエスは共におられないと、思っているのです。

 主イエスはこの時、別の場所でひとり祈っておられたので、弟子達の舟に同席されていなかった。しかし、祈りの中で、夜通し目を覚まして弟子達を覚えておられた。弟子達と共におられた、弟子達を見ておられたということです。主なる神は、いつも私どものことを見ておられるのです。

 マルコによる福音書は、自分たちの物語として、記しています。はじめの頃のキリスト教会の姿、自分たちの姿を、ここに重ね合わせて記しているということです。私どもも、自分たちの姿を重ねるようにして、御言葉に心を向けてまいりましょう。


 キリスト教会は、舟にたとえられることがあります。嵐の中、前に進めないで、あえいでいる弟子達の姿に、マルコは自分たちの姿を見ていると思われます。私どもも、似たような経験があるのではないでしょうか。なぜ、思う所、願う所へとたどり着けないかということです。

 しかし、同時に、ここに記されている主イエスの姿に、今も同じように働いてくださっている、主イエス・キリストを告白しているのです。漕ぎあえいでいる弟子達のところに主イエスが行かれたように、自分たちのところに来られ、み声をかけて下さる。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と、神の言葉を与えてくださる喜びを伝えているのです。主は私どもに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかけてくださるのです。

 この箇所には、とらえきれないことが書いてあります。主イエスが水の上を歩いて弟子たちのところへと行かれたことがそうです。もちろん、マルコ福音書は主イエスが水の上を歩かれたことを信じて記していますが、いつもそのように近づいてくださるという意味で書いてはいないのです。旧約聖書には、ヨブ記9章8節に「神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。」とあります。荒ぶる嵐を踏み砕く主なる神のことが記されていますから、ここには、そのように主イエスがまさに主なる神として近づいてくださることが示されているのです。

 しかもマルコは、不信仰な自分たちに、神の語りかけが与えられることは、まさに、主イエスが水の上を歩いて弟子達のところに行かれたように、本来あり得ないことが与えられているということだと信じて記しているのです。そのように、神の恵みによって信仰を与えられて、神の言葉を聞き続けたのです。礼拝において、神に出会い、神の言葉を与えられて聞くということが、どれほど、本来あり得ないことであるかを、マルコの教会のキリスト者たちは、よく分かっていたということです。


 今日の箇所をお聞きになって、どんな思いを抱かれたでしょうか。

 私はこの物語の中で、主イエスが、「夜が明けるころ」(48)弟子達に御自身を明らかにされたことに、思いを引き寄せられます。その時間帯は、夜明け前です。夜明け前の暗き時です。その時は、いちばん暗い、一番冷え込むときです。まさに、そのようなときに御自身を明らかにしてくださることがあるということです。私どもにとって、夜明け前とも言える、もっとも、厳しい時に主イエスが近づいてくださることがあるということです。


 「そばを通り過ぎようとされた」というところを、不思議に思われた方がいるかもしれません。これは、せっかく弟子たちを助けるために近づかれたのに、なぜ「そばを通り過ぎようとされた」のかと考えてしまうからです。ここには、旧約聖書で、主なる神が現れて近づかれたときに、人は聖なる神が正面からまともに近づかれたら、罪深く耐えられないので、通り過ぎようとされたことと同じことが、明らかに示されています。すなわち、主イエスは、主なる神であることが記されているということです。

 さらに、幽霊だと思った弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかけられました。「わたしだ」というのは、「幽霊ではなくて、わたしだ」という以上の深い意味があります。主イエスは、わたしだ、わたしがここにいるではないか、安心しなさいと言われたのです。主イエスは、弟子たちに、主なる神であるわたしが共にいるのであるから、安心しなさい、恐れることはない、と語りかけられたのです。

 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」この恵みの御言葉は、思うようにいかなくて生きることに漕ぎあえぐことがある私どもにも与えられているのです。

 

 「安心しなさい」という言葉は、勇気を出しなさいとも訳すことができます。「勇気を出しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われると、その勇気は自分で用意するように感じるかもしれません。しかし、夜明けを迎えたときに、向こうから光がさし込んでくるように、勇気を出しなさい、と言われる主イエスを信じて見上げるときに、主イエスのもとから勇気がさし込んでくるのです。だから「安心しなさい」と言われる。

 さて夜が明けて、弟子たちは主イエスと舟からおりて上陸するのですが、そこには「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」という御言葉が、夜明けの光と共に輝いているのです。

 集まってきた人々は、主イエスのことを、自分たちの病気をいやしてくれる人として、必死で探し求めています。その理解は間違っているとは言えない。しかし、十分ではないのです。さらに、主イエスを、ただ自分たちの病を癒してくれる人とだけ考えていたなら、それは正しくないのです。

 学者達は、この箇所の人々の姿は、正しくない、迷信的にイエスに近づいている、と言います。確かにそうかもしれない。しかし、マルコは喜んで記しているのです。「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」(56)しかし同時に、この時、人々の主イエスに対する理解はまだ十分ではないことをマルコはわかっているのです。

 主イエスはここで、憐れみをもって人々の要求を受けとめておられます。しかし、決してそこに留まってはおられない。御自身の道を進みゆかれるのです。私どもも、イエスの後を従うべきなのです。主イエスは私どもの先を行かれるのです。主イエスは救い主であって、私どもの喜びそのものです。決してなくならない、朽ちない喜びです。


 イザヤ書の66章1-2節を思い起こします。

「主はこう言われる。

天はわたしの王座、地はわが足台。

あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。

何がわたしの安息の場となりうるか。

これらはすべて、わたしの手が造り

これらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。


わたしが顧みるのは

苦しむ人、霊の砕かれた人

わたしの言葉におののく人。」

 「何がわたしの安息の場となりうるか」とありますが、主なる神が、安息の場を求めておられるのは不思議な気がするかもしれません。しかし、それは逆に言えば、私どもがどこに安息を見いだしているかということでもあります。その神の安息は、全世界を手にするようなただ豊かになることによっては来ないし、また、りっぱな神殿を建てるだけでは、主の平安は来ないというのです。主なる神が顧みてくださらなければそれは与えられない。あるいは、主なる神が触れてくださらなければ平安は来ないということです。どのような人に触れてくださるのか。「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」とあります。

 「苦しむ人」というのは、生きる苦しみがあって、主のもとに憐れみを求めてくる人でしょう。「霊の砕かれた人」というのも、別の人ではなくて、同時に、霊が砕かれた人、すなわち、神へと向き直る悔い改めをもって来る人であります。「わたしの言葉におののく人」もまた、主の前にひれ伏して、主の御言葉に生きる人であります。そのような姿は、まさに礼拝をささげる姿でありまして、そこに主の平安、神の安息があるということです。

 主イエスは礼拝においてまさに神の平安そのものとして出会ってくださる。喜びそのものである主イエスが近づいてきてくださる。その時、ひれ伏して、神から与えられる安息に身をゆだねるのです。そして、主イエスの衣の裾に触れるかのように礼拝をささげるのであります。礼拝において主イエスはいつも、「安心しなさい。勇気を出しなさい。わたしがいるではないか。恐れることはない。」と語りかけてくださるのです。


 ある有名な彫刻家の作品を思い起こします。

 バルラッハという彫刻家は、主イエスとトマスという弟子の姿を彫刻として掘り出しています。トマスは、有名な弟子で、自分の力では死からよみがえられた主イエスを信じることができなかったのです。しかし、そのようなトマスのところにも、主イエスはよみがえられた後、来られて信仰を与えられた。トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と信仰を告白したのです。

 興味深いことに、バルラッハの彫刻は、その時の若いトマスの姿を彫りだしているのではありません。老人となったトマスです。その老人トマスは、主イエスに寄りかかっているのです。老人だから寄りかかっているというのでもないと思います。その姿は、トマスの信仰生涯をあらわしている。トマスは生涯、自分の中から信仰を生み出したのではなくて、主イエスから与えられ続けた。時に信仰を見失ったでしょう。一度や二度ではなかったはずです。しかし、生涯主イエスはトマスを支えてくださった。そこに、バルラッハが自分自身の信仰生涯をも表現しているのです。

 バルラッハの彫刻は、寄りかかる老人トマスを主イエスが脇の下から力強く、ぐっと支えている。その両手は永遠の神のみ手であります。

 主イエスは私どもを生涯支えることができるということです。支え続けてくださる。召される日にも、その御手で支えてくださる。先に召された者を主が、支え守ってくださっているのであります。

 私どもはそのことを信じて、礼拝において、主イエスに寄りかかることをゆるされている。主イエスは寄りかかる私どもを助け、起こしてくださるのです。主イエスは、永遠の神の御手をもって、私どもを起き上がらせることができるのです。 

 今日は、教会創立記念日礼拝でもあります。創立以来、ここまで導かれたのは、主イエスが水の上を歩いて弟子たちを導かれたことよりも、もっとありえない恵みに支えられてきたからであります。これからも、白鷺教会を主は、永遠の御手によって支えてくださるのです。

 永遠の神の御手をもって支えてくださる主が、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかけてくださる御言葉の確かさを信じて、主に従ってまいりましょう。



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