神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書 3章 16節)
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
(イザヤ書 9章 5-6節)
讃美歌 255 生けるものすべて
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
(ルカによる福音書 2章 1-20節)
讃美歌 264 きよしこの夜
讃美歌 265 天なる神には
〈説教〉
小さなメシアにお会いしよう
棚村惠子牧師
まことの光の誕生
皆さんの手に握られた一本のろうそくの光が暗闇に輝いています。
ふっと一息で消すことができる一本のろうそくの光ですが、暗い礼拝堂を明るく温かく
照らします。同じように命の光は、とてもはかないものですが、一隅を照らします。
2000年前のクリスマスの夜、すべての人を照らすまことの光が誕生しました。
静かな聖なる夜に
ローマ帝国の支配下にあった辺境の小国、ユダヤの、小さな村ベツレヘムの、つつましい家畜小屋の飼い葉桶に、生まれたばかりのひとりの男の子が寝かされました。若い母マリアは、夫ヨセフだけに助けられ薄暗い場所で初めての子を産み落としました。それに気づいた人はなく、誰からも祝福を受けずに生まれたその赤子は、おそらく世界中でもっともか弱い小さな命の光であったでしょう。しかし、その命こそ、すべての人を照らすまことの光、メシアであったとは、そのとき世界中の誰ひとり知るよしもありませんでした。初めてのクリスマスは静かで聖なる夜でした。
マリアとヨセフの選択と決断
若夫婦はガリラヤのナザレの住人でした。ヨセフは大工で、マリアはおそらく10代の普通の乙女でした。二人がまだ婚約中であったとき、ある日突然マリアに天使ガブリエルが現れ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げました。天使はさらにマリアがダビデの王座を継ぐ特別な子を産むのだと続きます。マリアは、自分たちはまだ婚約中であり、それはありえないと反論したものの、天使はたたみかけるように、聖霊の力でそうなるのだからと説得します。マリアは戸惑いつつも聖なる神の子を産むという大きな役目を引き受ける決心をし、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えました。
しかし、それには大きなリスクが伴いました。もしヨセフがマリアの不貞を疑えば、彼女は彼の愛を失うだけでなく、残酷な石打ち刑によって命を失うことになるかもしれません。しかし、賢明で信仰篤く愛情深いヨセフは、夢で現れた天使のお告げによって、聖霊によるマリアの懐妊という信じがたいことを受け入れる決断を下しました。こうして危機を乗り越えた二人はめでたく夫婦となりました。
どんな結婚も相手の愛を信じることなしには成立しません。ヨセフとマリアは互いを信じあうことによって特別な御子を産み育てる決心をしました。これによって、マリアは「ふしだらな女」という烙印を押されることなくヨセフに守られて妊娠期間を無事に過ごし、臨月を迎えました。
小さな者が歴史を創る
この話は現実にはありえないファンタジーのように見えますが、人間の選択と決断
の物語と見ることもできます。『英雄たちの選択』というNHKの番組があります。歴史を
大きく変える決断をした英雄たちの心の中にどんな葛藤があったか、どうしてそのような決断をしたのか掘り下げて考察する教養番組です。マリアとヨセフの物語もそれに似ています。もっとも、彼らは英雄ではなく、つつましい庶民であった点が番組とは異なっています。しかし、二人の選択が歴史を大きく変えたことは事実です。なぜなら世界史はイエス・キリストを分岐点としてそれ以前を紀元前、BC(キリスト以前)と表記し、キリスト以後は紀元後、AD(主の年)とするからです。もし、マリアとヨセフの勇気ある決断と選択がなかったとしたら、そもそもメシアの誕生もありえず、今年を2020年とすることもありえないことでした。歴史を創るのは大きな英雄ではなく実は小さな人々なのです。
信仰による人生の選択
私たちはみな、多かれ少なかれ人生の選択をして今日に至っています。学校、就職、結婚などを決めるとき、私たちは選択をします。そのことに満足する人もいるでしょうが、別の選択をしていたら今ごろどうなっていたのかと考える人もおられるでしょう。ある新聞の人生相談の欄に次のようなものがありました。「自分は今70代で夫と暮らしているが、若いころ付き合っていた恋人のことが今も忘れられません。もし、あの人と結婚していたら、人生はまったく変わっていただろうと思うと、もう一度、彼に一目でもいいから会いたい。」という内容でした。もちろん、賢明な回答者は「それはおやめなさい。良い思い出としてあなたの胸にだけ収めるように」と忠告しました。
何歳になっても人は過去の選択を悔やむものです。しかし、マリアとヨセフに迷いや後悔はなかったと思います。なぜなら、それぞれへの天使のお告げを神のご意志と信じる信仰の決断をしたからです。そこに、彼らが困難や困惑、悩みや苦しみを乗り越えた鍵があると思います。人生は選択と決断の連続です。もし、ふりかかった不可解で不条理な出来事を自分の選択の誤りの結果ではなく、そこにも恵み深い神の「思し召し」があると信じることができれば、困難に満ちた人生でもなんとか耐えることができるでしょう。
命の光を守る闘い
さて、二人が共に神を信じ互いを信じた結果、神の御子の小さな命がマリアの体内で成長し、ヨセフはそれを守り通しました。こうして聖家族の第1の試練は乗り越えられました。しかし、第2の試練がやってきました。それが、ベツレヘムへの旅です。絶大な権力を持つローマ皇帝から「登録をせよ」との勅令が下り、帝国の支配下にある人々は残らず、先祖の本籍地での登録を余儀なくされました。ヨセフはナザレの大工でしたが、先祖を辿るとなんとダビデ王の家系に繋がっていたことから、ダビデの町、ベツレヘムまで旅をせねばなりませんでした。ロバに乗っての旅はおそらく何日もかかったことでしょう。
旅の途中の出産に備えてマリアはおくるみ、おしめなどを準備したことでしょう。ヨセフはというと、旅の費用を少しでもまかなうために、大工道具を荷物に入れたかもしれません。16世紀のオランダの画家ブリューゲルは、『ベツレヘムの人口調査』という絵画に、のこぎりを抱えたヨセフを描いています。経済的負担や流産の危険を考えると、ベツレヘムへの旅は小さな命を守ろうとする二人にとって大きな負担であり試練でした。
ようやくヨセフとお腹の大きいマリアがベツレヘムまでやってきたとき、マリアは月満ちて産気づきました。しかし、誰も二人に手を貸さず、部屋を提供してくれる者もいませんでした。出血を伴う出産を宗教的な汚れと考える当時の人々は、見知らぬ女の出産によって自分の家が汚れることを恐れたのかもしれません。故郷から遠く離れ、産婆や家族の助けがない場所で初産を迎えたマリアはどんなに心細く思ったことでしょうか。想像するだけで心が痛みます。お産が命がけであった時代にマリアが経験した旅先での出産は勇気が要る闘いでした。こうして聖なる夜に尊い命が誕生しました。
命の誕生の背後にはドラマがある
命の誕生の背後には多かれ少なかれドラマがあります。私たちは自力で生きているつもりでいますが、きっと私たちが知らない出産のドラマがあったに違いありません。神の強いご意志が働いて私たちは今、こうして生かされています。主イエス・キリストのご降誕の背後にはマリアとヨセフの小さな命を必至で守る涙ぐましいドラマがあり、神の救いのシナリオがありました。
一方、与えられた乳飲み子の愛らしい小さな体、優しく温かい命のぬくもりは親たちに得も言われぬ喜びもたらします。マリアとヨセフは、幼子イエスを抱いたとき、自分たちの選択は間違ってはいなかった、神のご計画は何があっても進むのだ、そう確信したに違いありません。赤子の小さな命は人の心を明るくするだけではありません。人の心に希望の光を灯します。小さな赤ちゃんを覗き込むとき、私たちの心は柔らかにされ平安に満たされます。
天使の驚くべき啓示
さて、イエス・キリストがお生まれになったその夜、場面が変わってベツレヘム近郊の野
原で羊の番をしていた羊飼いたちに突然天使が現れました。クリスマスの第2幕です。天使は羊飼いたちに、ベツレヘムの飼い葉桶の子が実はすべての民に与えられた救い主、主メシアであると告げました。そして続けて夜空にまぶしい光が満ち、天の軍勢が現れ賛美を歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
暗い夜空に突然現れた天使たちのハレルヤコーラスに男たちは目を見張りました。しかし、天使の告げたメッセージの内容は羊飼いたちにとって首をかしげたくなるものだったに違いありません。メシアが飼い葉桶に寝かされた乳飲み子だって?何という「ちぐはぐ」だろうか。偉大なメシアが無力な赤子だとは!
小さなメシア
そこで、彼らは、はたして天使が告げたことが本当かどうか見に行こうと話し合い、ベツレヘムへと急ぎました。そして、ついに飼い葉桶の赤子を見つけ、小さなメシアにお目にかかりました。「小さな」「メシア」という矛盾は、人の理性や知恵では理解できません。常識では、小ささと偉大さは結び付くことはないからです。人知を超えた天の啓示がどうしても必要です。私たちが信仰を持つというときも同様です。「聖書にはどうも理性に合わない非科学的物語が多すぎる。まともな教育を受けた人が信じる内容とはとても思えない。」と思っておられる方もあるでしょう。しかし、今年、私たちは新型ウイルスの蔓延によってあっという間に世界がひっくり返され、科学が万能ではないこと、人間には限界があることを思い知らされました。新型のウイルスがあっという間に蔓延し、「万物の霊長」とおごっていた人間が未知の微小な存在にこれほどひどく脅かされるとは。また、人間の自己中心や差別という罪深さも露わになっています。そのような今、私たちは科学中心主義や人間中心主義では突破できない壁の前で呆然と佇んでいます。神が啓示してくださった小さなメシアは何をもたらしてくださるのでしょうか。
科学者パスカルは神の光にしがみつく
「人間はひと茎の葦にすぎない。自然の中でもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。」という有名な言葉を残した17世紀のフランスの天才的科学者、思想家のブレーズ・パスカルは、自ら病気がちで死の恐れと生涯闘い39歳で亡くなりました。彼は『パンセ』の中で人間の悲惨について次のように書いています。
「人間の悲惨を見、沈黙している宇宙をながめるとき、人間がなんの光もなく、ひとり置
き去りにされ、宇宙の一隅にさまよっているかのように、だれが、自分をそこに置いたか、
何をしにそこへ来たか、死んだらどうなるかを知らず、あらゆる認識を奪われているのを見
る。」
パスカルは人間を「惨めなさすらい人」と表現しました。そんな彼は、1654年11月23日の夜、十時半ころ、聖書に証されたイエス・キリストの父なる神の愛の温かさに心が震える経験をしました。その感激を紙に書き記し、生涯衣の裏に縫い付けていました。
パスカルはイエス・キリストを通して現わされた神の愛の啓示によって救われ、慰めと平安を得ました。科学の天才であったパスカルの不安な魂は新しい愛の次元へと飛躍しました。彼は小さな光、イエス・キリストという神の愛のしるしにしがみつき、耐えがたい病を抱えつつ最後まで生きるという選択をしました。
大きいメシアの待望
人間に必要な救いは、パスカルのように弱さと死の縄にがんじがらめになって、暗い宇宙に宙ぶらりんになっている状態からの救いではないでしょうか。それなのに、人はとかく力のある指導者や偉大な政治家、優秀な科学者によって人間の悲惨がすべて解決されると考えがちです。大きいメシアの待望です。
さきほどお読みいただいた旧約聖書イザヤ書9章にはひとりの男の子の誕生が預言されています。メシア預言と言われる箇所の一つです。その男の子の名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」という大そうな名を持つ存在、それが待望されるメシア像でした。ダビデ王のように強さと力を持ち、戦いに勝って平和をもたらすリーダーの登場によって正義の王国が永遠に栄えると預言されています。それはユダヤの民の悲願であったことでしょう。大きなメシアこそ、大国に翻弄された民の希望の光であったのです。
混迷した世界は強いリーダーを待望します。力によって権力者になったローマ皇帝は確かに人々を幸せにしました。素晴らしいインフラ、豊かなパン、巨大な保養センター、円形劇場による娯楽を市民に提供しました。それらは一時的に人々に豊かさと快楽をもたらしましたが、「永遠の都ローマ」は永遠ではなく、巨大な帝国はやがて滅亡しました。人間が作り上げるものに、永遠はありえません。大きなメシアが永遠であることはないのです。
予想と期待に反したメシアの誕生
クリスマスの夜、天の使いが告げたメシアは人間の予想と期待に反した「飼い葉桶に眠る乳飲み子」でした。何もできない小さな存在がメシアだとは信じがたいことです。さらにその子は長じて神のみ国を宣べ伝え、時の権力者や宗教指導者からにらまれて危険人物としてローマ帝国の総督によって十字架で処刑されました。預言者イザヤが記した4つの名前はそれによって意味ががらりと変わりました。人々が期待した強いメシアではなく「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」とののしられつつも十字架から降りないまま死に、3日目に復活された方こそが真実の「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」だと新約聖書は主張してやみません。
永遠の父、力ある神は、小ささ、弱さ、無力さの中にご自分を現わされ、人間のさまよう魂を根底から救おうとされました。誰も待望しなかった「へりくだるメシア」は、十字架の死によって人の罪を贖い、復活によって永遠の命をくださる道を開いてくださいました。
ヨハネによる福音書3章16節のみ言葉はこうです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これがまさにクリスマスです。
身をかがめて小さなメシアにお会いしよう!
まことの人でありつつ、まことの神であられた小さなメシアはすべての人を照らすまことの光としてクリスマスの夜、確かに私たちに与えられました。しかし、その小さなメシアにお会いするためには、私たちも身をかがめる必要があります。高きにいます神が低くなってくださったのですから、私たちも身を低くせねばなりません。へりくだって飼い葉桶を覗き込み、眠る小さなメシアにお会いしようではありませんか。その方のみが与えてくださる喜びと平安を受け取ろうではありませんか。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」そう約束してくださる十字架と復活の主イエス・キリストの光が不安な私たちの魂を今も照らしてくださっています。感謝して共に主のご降誕を祝おうではありませんか。
〈祈り〉
主イエス・キリストの父なる神様
クリスマスの恵みを感謝します。御子の到来によって私たちは、もはや惨めなさすらい人ではありません。
どうかコロナ禍で悩み苦しむ私どもを憐れみ、あなたの平安をお与えください。
そして今の試練を乗り越える信仰の力、愛の力をお与えください。
静かな聖なる今宵、一人ひとりをあなたが訪れてくださり御子の命の光を灯してくださるよう心からお願いいたします。
主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
アーメン
讃美歌 261 もろびとこぞりて
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