2025年2月9日(日)
- shirasagichurch
- 2月9日
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【降誕節第7主日】
礼拝説教「自分を清める」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネの手紙一 2:28-3:3
<讃美歌>
(21)25,19,51,509,64,29
今日与えられています箇所は、28節で「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。」と語りかけています。当時、信仰の歩みが惑わされるようなこと、すなわち「御子の内に」とどまらせないような教えがあったのでしょう。私どもも、真実な信仰の歩みから離れさせようとする悪しき力、罪の働きがあることを知っておく必要があります。ヨハネは、書き送っている教会の者たちが、いわば信仰的には幼く、まだ十分に分かっていないことを、彼ら以上によく知っていたので、神の愛によって語りかけているのです。ある神学者は、「子たちよ」という言葉を「幼子たちよ」と訳しています。
「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」と、とても大切な聖句が語りかけられているのですが、御子の内にいつもとどまるとは、どういうことでしょうか。黙想会で、ごいっしょに分かち合ってもいいようなテーマですが、直前の27節にこうあります。「だから、教えられた通り、御子の内にとどまりなさい。」「教えられた通り」とは、ヨハネの手紙一でここまで語られてきたことすべてですが、中心の聖句の一つは2章12節です。「子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからです。」主イエス・キリストによって、罪が赦されている救い、福音の教えに生きることはまた、御子の内にいつもとどまることでもあるのです。
福音の教えというときに、思い起こす有名な聖句があります。ローマの信徒への手紙1章17節です。「福音には神の義が啓示されています」という御言葉です。この御言葉の豊かさを理解するときに、「神の義」をどう捉えるかということが重要なカギになります。
かつて、マルティン・ルターが「神の義」について、とても大きな経験をしました。徳善先生の翻訳によってルターの言葉の要所を記します。「私はこの『神の義』ということばを憎んでいたが、・・・すなわち、その義によって神は義であり、かつ、罪人と不義な者を罰する、というように理解するよう教えられていたからである。(中略)だが、神は私を憐れんでくださった。私は『神の義は福音の中に啓示された。義人は信仰によって生きると書かれているとおりである』ということばのつながりに注目して、日夜たえまなくそれを黙考していた。そのとき私は、神の義によって義人は賜物を受け、信仰によって生きるという具合に『神の義』を理解しはじめた。これこそまさしく、神の義は福音によって啓示されたということであり、神はその義により憐れみをもって信仰により私たちを義としてくださる、という具合に受動的義として理解しはじめたのである。まさに『義人は信仰によって生きる』とあるとおりである。」
「神の義」という言葉と関連して、今日の箇所にも、29節に「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」とあります。「御子が正しい方」というのは、直訳すると「御子が義なる方」という意味で、「義を行う」方そのもの、まさに義人としての主イエス・キリストのことが語られています。
旧約聖書の詩編では、新共同訳聖書で「義」(ツァディーク)が通常「恵みの御業(みわざ)」と訳されています。それは、神の義は、恵みと憐れみをもって私どもに働きかけるからです。罪を裁く義であると共に、その義は私どもに罪からの救いを与えようとして憐れみをもって働く恵みの御業でもあるのです。ローマの信徒への手紙1章17節の「福音には神の義が啓示されています」という御言葉とつながってきますし、主イエス・キリストが義なるお方として、私どもを救おうと働いておられることも理解することができるのです。
さて、29節に「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」とありますが、「義を行う者」というのは、ヨハネが教会のキリスト者を指して使っているのです。神の義について語ってきましたように、「義を行う者」という「義」が神の義によって歩むことであるので、その義は神様が私どもに罪からの救いを与えようとして憐れみをもって働く恵みの御業に仕えることでもあるのです。ですから、繰り返しになりますが「義を行う」ことは、神の恵みの御業に仕えることと、ほぼ同じ意味で捉えることができますし、独りよがりな正しさに生きることとは全く違う、主なる神が私どもを愛して赦してくださることに生きることでもあるのです。主なる神が私どもを愛して赦してくださることは、3章1節につながります。
3章の1節に「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」とあるのは、深い神の愛を思い返して語っているのです。私どもも、神の子と呼ばれるにはふさわしくない、そう呼ばれる理由が全く見いだせない者たちではないでしょうか。そのような神の深い愛を知り、その神の愛に生かされている者たちはまた、自らも神の愛に生かされて、人を受け入れて赦していくよう導かれているのです。そのことは「御子の内にいつもとどまりなさい」という御言葉に従うことであり、義を行う者としての道に生きることでもあります。
ヨハネはキリスト者に、2節で「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるのかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似る者となるということを知っています。」と語りかけます。「御子が現れるとき」というのは、当時のキリスト者は、自分たちが生きている間にも起こることとして捉えていたようです。もちろん、この地上での生涯を終えたときのことを含んで語っています。
修道院で言い継がれた言葉に、「メメント・モリ」という言葉があります。直訳すると、「覚えよ、あなたの死を」という意味です。これは、私どもがやがてこの地上での生涯を終える日が来ることを心にとめて、日々に主なる神を信じて生きるように、神の恵みに日々に生きるようにということです。「メメント・モリ」は、もうひとつ、「メメント・ドミニ」という言葉と共に心に刻むべきものです。「メメント・ドミニ」は「覚えよ、あなたの主を」という意味です。主を覚えて、ということは主を信じて生きていくことです。今日の箇所で言うなら、御子の内にとどまることですし、神の義である御子の愛に生きて、自らも、神と人とを愛することに生きることです。
聖書は、この地上での生涯を終えるときにどうなるのかは、ほとんご語っていません。しかし、今日の箇所からするなら、「御子に似る者となるということ」です。そのことを思い巡らすことは、大きな慰めであります。
私事ですが、「御子に似る者となるということ」について、かつて習字を習っていたころのことを思い起こします。小学1年生で、教会の近所にあった習字教室に通うようになりました。習字の筆使いを体得させるために、ある日、その教室の先生が後ろに来て「力ぬいてごらん」と言って、自分の手を取って筆を動かしてくれました。実際に自分の体を動かしてもらって、筆の運び方を自分で自分の腕と筆を見て感じながら体得したのです。
「御子に似る者となるということ」は、主なる神の御言葉に動かされていく中で、御子である主イエス・キリストの愛を知り、その深い思いを御言葉によって味わう中で、私どもは体得してくのではないでしょうか。そのことはまた、受動的に動かされるだけではなくて、3節に「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」とあるように、「自分を清める」ことに生きていくのです。
「清い」という言葉は、罪から離れていることです。逆に言うなら、神の愛とつながって生きていることです。また聖書で「清い」というのは、神のものとされていることでもあります。それは、神の子とされている、と言うことができます。
神様の愛を受けるのに、ふさわしい者は誰もいないことを先ほど話しました。そうであるなら、神様の愛を受けて神の子としていただいた者が、その愛に応答して御子に似た者となろうとして生きることを、主は心から喜んでくださるのです。
御子に似た者となろうとする歩みが、どんなに小さな歩みであったとしても、主なる神は心から喜び、あと押ししてくださるのです。主のあと押しは、「子たちよ、御子の内にとどまりなさい」と、御言葉によって動かして支えてくださることを信じて従っていきましょう。

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